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057「五筆和尚」、当意即妙の書法

 この時期、空海には朝廷の公務のほかに唐の書や詩文を通じての嵯峨との親交が目立つ。

 弘仁2年(811)の『劉希夷集』『王昌齢詩格』『貞元英傑六言詩』『飛白書』につづいて、翌弘仁3年(812)の7月には『急就章』『王昌齢集』等を、弘仁5年(814)閏7月には『梵字并ビニ雑文ヲ献ズル表』の表とともに『梵字悉曇字母并釈義』『古今文字讃』『古今篆隷文体』など、写本や自作本を嵯峨のもとに届けた。嵯峨は、それらの価値をすぐ理解した。長安に赴かなければ求めることのできない唐風文化の精華を直接手にし、空海の好意をことのほか喜んだにちがいない。

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 劉希夷は唐初期の詩人で、「洛陽城東桃李の花、飛び来たり飛び去り誰が家にか落ちん、・・年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず・・」で有名なあの「代悲白頭翁」を作っている。

 王昌齢は唐中期の人で、詩家の天子とあだ名され、七言絶句の秀作をたくさん残した。

 『飛白書』は唐時代にさかんに書かれた「飛白体」の書法や墨蹟を集めた書である。

 『急就章』は漢の史游の作といわれる物の名や人の姓名を韻文で列記してそれを講釈したもの。識字教育のテキストとしても永く使われた。

 『梵字悉曇字母并釈義』は空海が編纂したわが国最初のサンスクリット字典。インド古典語であるサンスクリットの字母(アルファベット)表ほか、それらの字義(意味)などが文法書のように書かれている。

 弘仁7年(816)8月、嵯峨から勅賜された屏風に揮毫してそれを献納し、10月に嵯峨の病気平癒のために祈祷を行っている。

 ある時、嵯峨が空海に唐から伝来したという書を見せて「みごとなものだ」と賞賛すると、空海がこれに応じ「これは私が長安にいた時に書いたものです」という。嵯峨はうなずかなかったのだが、空海の言うとおり、見えないところに署名があった。嵯峨が「しかし、ずいぶん書風がちがうと思うのだが」となおも言うと、空海は「唐は大国で日本は小国。それに合わせて書風も変わるのです」と答え、嵯峨は感服したというエピソードがある。このエピソードは、空海の書風がその時と場所に応じて卒意的であること、ひとつの型にはまらず当意即妙・臨機応変であることを物語っている。
 その著『空海の夢』で空海の書について論じている松岡正剛氏は、空海の卒意は24才の時に書いた『聾瞽指帰』にあらわれているという。『聾瞽指帰』には「王羲之李邕もいるが、隋の智果陸柬之もいる」と。また、「聾」の字の一画には、鵠頭(こくとう)、あるいは返鵲(へんじゃく)といってカササギが翼をひるがえしたような書法も見え、それはまた梵字書法に通ずるという見方を紹介している。

一字一文法界二遍ジ、無終無始ニシテ我ガ心分ナリ。(『般若心経秘鍵』

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 「真言七祖像讃並行状文」「益田池碑銘」 「破体心経」 「十如是」「鳥形所有相」等に書かれた空海独特の雑体(破体)書は、ちがうものをトータルで一体化してしまう空海密教の特長にも合致し、ある意味で宇宙生命のダイナミズムを表現したものとも言える。

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大和益田池碑銘
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破体心経

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飛白「十如是」より
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 空海には「五筆和尚」の異名があった。長安から帰る直前、皇帝憲宗の命で宮中の王羲之筆の屏風に欠字を書き補うに、両手両足と口に五本の筆を持し篆・隷・楷・行・草の五体書法で一気に書いたのでその異名をとったという。
 空海の書は、長安の文人たちの評価がすこぶる高かった。空海が長安を去る時に送別の詩を贈ってくれた胡伯崇は「天より吾が師に仮くる伎術多く、なかんずく草聖は最も狂逸たり」(「釈空海に贈るの詩」)といい、朱千乗は「梵書を能くし、八体に工なり」と賛嘆した。空海はこの朱千乗の詩集(『朱千乗詩集』)を嵯峨に贈っている(『性霊集』)。

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 一方嵯峨の書は唐初期の欧陽詢を好みとし、またあきらかに空海の書風の影響を受けている。嵯峨の真蹟といわれている「光定戒牒」(こうじょうかいちょう、国宝、僧光定(こうじょう)が延暦寺で受戒したことを証明した文書)の書風にはそれがよく認められる。
 大飢饉のあった弘仁9年(818)、嵯峨は、大内裏の門号を唐風に改めるとともに、大内裏の東面の陽明門・待賢門・郁芳門の扁額を自ら書き、南面の美福門・朱雀門・皇嘉門の扁額を空海に、また北面の安嘉門・偉鑒門・達智門の扁額を橘逸勢に書かせた。「日本三筆」の揃い書きである。この「日本三筆」に代表されるこの時期の書の盛況は、日本の書道の上で見れば唐風に学びながらもそれぞれに独自の書法を開拓し、やがて後に確立する和様への橋渡しの役割を果たしたといえるのであろう。

 同じこの時期、朝廷では漢詩文が流行し、白楽天(白居易)『白氏文集』は貴族の愛読書となった。勅撰の漢詩文集が出たのもこの時代で、嵯峨の命により『凌雲集』をはじめ『文華秀麗集』 『経国集』が編纂された。また個人の文集としては、空海の『性霊集』があり、代表的な文人には小野岑守小野篁滋野貞主大江音人橘広相紀長谷雄菅原道真都良香らがいる。
 文人との交わりといえば、『江談抄』 『宇治拾遺物語』 『十訓抄』 『類歌古今集』『世継物語』『東斎随筆』などにある小野篁との問答が有名である。

 嵯峨は京の西に離宮をもっていた。京洛から離れたこの地を唐の長安の北方にある景勝の地嵯峨山になぞらえてこよなく愛し、結婚した皇后(橘嘉智子檀林皇后)との新居離宮として「嵯峨院」をここに建立した。今の嵯峨大覚寺である。

 空海が高雄山寺に入ってまもない大同4年(809)秋にはじまった嵯峨と空海の詩文や書を通じての親交は次第に深まり、翌弘仁元年(810)嵯峨が元旦の朝儀を中止しなければならないほどの病気になると、空海は『般若心経』の写経を行い病気平癒を祈った。現在の大覚寺が『般若心経』の写経布教に力を入れているのはこの事蹟にもとづいている。
 また弘仁2年(811)、嵯峨は「嵯峨院」のなかに持仏堂(五覚院)を建立し、空海に命じて五大明王(不動明王(中央)、降三世明王(東)、軍荼利明王(南)、大威徳明王(西)、金剛夜叉明王(北))を祀り、国家安穏・護国済民の修法(おそらく『仁王経』(『仁王護国般若波羅蜜多経陀羅尼念誦儀軌』)にもとづく五壇法)を行わせた。これが大覚寺の興りである。
 さらに嵯峨は、弘仁9年(818)に大飢餓がおこった際、自ら及び檀林皇后も衣服や食膳を簡素にして人々への施しを厚くした上、空海の勧めで『般若心経』を紺綾金泥(紺色の綾織の生地に金の泥墨で字を書く)の方法で書写し、飢饉平治・五穀豊穣を祈った。その折の宸筆『般若心経』は今も大覚寺「心経殿」に伝えられている(『勅封心経』(ちょくふうしんぎょう))。
 嵯峨は異母弟淳和に譲位した後、承和元年(834)にもう一つの離宮「冷泉院」からここに移り、承和9年(842)に世を去るまで檀林皇后とともにここで過ごした。
 嵯峨亡きあと、貞観18年(876)に淳和も薨じ、「嵯峨院」の行く末を案じた淳和皇后(嵯峨の皇女正子内親王)が清和天皇の勅許を得て大覚寺と命名し、淳和の第2皇子恒貞親王(恒寂法親王)が晋住した。のち宇多天皇の時に伽藍や房舎が一新され、これを「嵯峨御所」と呼ぶようになった。
 この恒寂法親王に伝法潅頂を授けたのは、かつて平城天皇の皇子で嵯峨の時代の皇太子でありながら「薬子の乱」で廃され出家して東大寺で空海の室に入った真如法親王(高岳親王)であった。この大覚寺の第一世恒寂法親王は空海の法孫(孫弟子)にあたるのである。

 空海は嵯峨との交友のつれづれに当然、この御所に何度かたずね、書のことや漢詩のことを語り合ったであろう。いつの頃か嵯峨が残した「海公(空海)ト茶ヲ飲ミ、山二帰ルヲ送ル」と題する漢詩もこの嵯峨院での交わりを詠ったものであろうか、いくたびか星霜を経ての二人の交情がしのばれる。

 道俗相分レテ数年ヲ経タリ、今秋晤語スルモ亦タ良縁。
香茶酌ミ罷ミテ日云(ここ)二暮レ、稽首シテ離ヲ傷ミ雲煙ヲ望ム。(『経国集』)

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大覚寺、五大堂(右)
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五大堂内部
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勅封心経殿

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