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055 良きライバル最澄の法城

 最澄のその法城だった比叡山延暦寺のことを少し書いておこうと思う。

 延暦寺は、延暦7年(788)、東大寺で「具足戒」を受けた最澄が比叡山の上に一庵を
結び、自ら薬師如来を刻んでこれを本尊とし「一乗止観院」と名づけたことにはじまる。

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 以来、平安遷都という新しい国の動きに伴い、南都の仏教勢力に手を焼いていた桓武の庇護のもと、大乗仏教の論学を中心とした南都六宗に対し、大乗の精華である『法華経』とその他の大乗経典を所依としながら、天台智顗直系の天台宗(円)と密教(密)と大乗「菩薩戒」(戒)と止観行(禅)の、四宗兼学の根本道場として盛んになり、後に円仁円珍安然良源などの俊才が出て台密を大成し、さらには山上の厳格な修行であった常行三昧を発展させ称名念仏(専修念仏)により極楽往生他力信仰を広めた法然親鸞や、止観を中国禅に学んで臨済禅曹洞禅に発展させた栄西道元や、蒙古の襲来という国家存亡の時代を背景に『法華経』の独自の解釈により立正安国の宗をかまえた日蓮や、『往生要集』源信(恵心僧都)『愚管抄』慈圓、踊り念仏の空也などを輩出した。

 延暦25年(806)1月、最澄の新しい仏教は年分度者2名(止観業遮那業各1名)が僧綱所に許められ宗(天台(法華円)宗)としてスタートするが、最澄の真の願いは比叡山上に国家認定の大乗戒壇を設け、そこで大乗「菩薩戒」を受戒した者が官僧として認められ、比叡山に残って天台宗を修学し大成することであった。そのことは、とりもなおさず天台宗の勢力拡大、南都仏教からの独立、南都官大寺に代る国家仏教の担い手、を意味する。
 受戒という仏道入門の儀礼が、その内実とは裏腹に新旧仏教の権益争いに直結しているのが見える。東大寺で具足戒を受けた比叡山の修行僧のなかに下山する者が絶えず、最澄の悩みの種だったという説も聞く。

 比叡山は平安京の北東に位置し、都の鬼門を鎮護する霊域であったが、歴史が下ると山内の僧侶のあいだに対立が起こり、その上に武装化する法師もあらわれていわゆる僧兵の跋扈する山となる。院政によって権勢を誇った白河法皇が「朕が心にままならぬものは、賀茂川の水、双六の賽、山法師(叡山の僧兵)」と嘆き、足利6代将軍義教、管領細川政元も僧兵と対峙して堂塔を灰燼に帰し、戦国の覇者織田信長も叡山を焼き討ちにしている。
 実際に比叡山に登りその凛とした聖域の空気にふれてみると、往古僧兵をも擁して時の政治権力に対抗した強い仏法護持・霊山守護の念が今もなお伝わってくるような気がする。
 高野山が山上に一つのまちを形成し、聖と俗が同居して「真(諦)」「俗(諦)」の「二諦」が融通相入している(マンダラ世界の)山であるのに対し、比叡の山は厳然として俗を受けつけない、いわば「空」「仮(げ)」「中」の「三諦」の哲理そのままの山である。

 比叡山の山内は大きく東塔(とうどう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)の三塔(3地区)に分かれている。その三塔各々に細分地域があり全体として三塔十六谷二別所と呼ばれている。東塔地区には北谷・東谷・南谷・西谷・無動寺谷が、西塔地区には東谷・南谷・南尾谷・北尾谷・北谷が、横川地区には香芳谷・解脱谷・戒心谷・都率谷・般若谷・飯室谷が、別所として黒谷・安楽谷がある。

 山上の大駐車場から拝観受付を通って進むとそこが東塔地区の入口でもある。拝観受付からの道を道なりにまっすぐ進むと「法華総持院東塔」・「阿弥陀堂」の方面へ、途中左手に「大講堂」があり、「大講堂」西側の小高い丘の上に「戒壇院」がある。これこそが開祖最澄が切望した大乗戒壇の堂宇である。

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大講堂と平和の鐘
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戒壇院

 「戒壇院」横の道を西塔の方へ行くと「奥比叡ドライブウェイ」にかかる陸橋があり、それを渡った木立のなかに古色蒼然とした「山王院」がある。第6代座主円珍(智証大師)の住房だったといわれている。この「山王院」の横の杉木立の間の参道を下ると「浄土院」に出る。ここが、伝教大師最澄の眠る御廟である。
 「大講堂」・「平和の鐘」の前を通って階段あるいは坂道を下りてゆくと「根本中堂」の上部に出る。階段を下りたところが「根本中堂」前の広場、「根本中堂」の向かい側の東側の階段の上に総門に当る「文殊楼」がある。
 「根本中堂」には千古の昔から灯しつづけられてきた「不滅の灯」があり、暗い内陣がかもしだす1200年の歴史の奥深さと相まって、荘重なこの霊山のシンボルにふさわしい。

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 ケーブルの駅から「根本中堂」と逆の南に15分ほど下りると無動寺谷に出る。ここは不動明王を祀る「明王堂」を中心とした無動寺域で、有名な千日回峰行の道場となっている。

 大駐車場から車で5~6分の西塔地区の駐車場から坂道を下り、丁字路のところを右に行くと伝教大師御廟の「浄土院」の方面へ、左に行くとまもなく「常行三昧堂」(左)と「法華堂」(右)が杉木立のなかにひっそりと並び立っている。「常行三昧堂」の前の草むらはかつて親鸞が住居としたところである。その道の反対の下に「椿堂」が見える。
 「常行三昧堂」と「法華堂」をつなぐ渡りの下をくぐりなおも進むと、長い石段の下に西塔の中心である「転法輪堂(釈迦堂)」がある。

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 この西塔からさらに車で5~6分ほどの横川地区に入るとまさに深山幽谷の空気につつまれ、ここの霊気のなかで行学にいそしんだ往古の僧たちの修行生活の厳しさが肌で感じられる。
 この横川は、唐に留学し『入唐求法巡礼行記』を書き遺した円仁が開き、『往生要集』を書いた恵心僧都源信など俊才が多く出ている。
 横川の駐車場から横川中堂に向かう道の左側に、栄西や道元・日蓮などこの山から輩出した鎌倉仏教の祖師たちの説明板がつづいている。
 その説明板の先に「龍ヶ池弁財天」の池と「弁天社」が見える。その前の道をなお進むと、朱塗りの「横川中堂」の下に出る。右手の階段を少し上がったところが入口である。お堂前の広場に、慈覚大師円仁と恵心僧都の説明板が建っている。この西の奥に二層の「根本如法塔」があり、そのほかこの地区には「恵心堂」や「元三大師堂」がある。

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 伝教大師最澄は、神護景雲元年(767)近江国滋賀郡古市郷(今の大津市)で生まれた。渡来系の三津首の家系を出自とする。12才の時近江国分寺の行表の室に入り、14才で得度し最澄と名のった。
 延暦4年(785)、19才の時に東大寺戒壇院で「具足戒」を受け、ほどなくして比叡山に上り草庵を結んで山林修行と仏典読破に専念する。延暦7年(788)に今の「根本中堂」に当る「一乗止観院」を創建し、自ら刻んだ薬師如来を本尊として祀る。
桓武天皇が平安京に遷都をしてまもない延暦16年(797)、内供奉十禅師の1人に任ぜられた。

 延暦21年(802)、高雄山寺において法華会を行い『法華経』を講義する。この年、第十六次遣唐使に同行する還学生の許可を上奏して認められた。
 延暦22年(803)、通訳に弟子の義真(のちの天台宗第1世座主)を連れ、第十六次遣唐使船で「難波ノ津」を出発するも1週間の内に悪天候のため船が損傷し、船の修理のため翌年の6月まで太宰府で待機を余儀なくされた。
 延暦23年(804)7月、遣唐大使藤原葛野麻呂ほか空海たちを乗せた再出発の第十六次遣唐使船に「那ノ津」で乗船、一路明州をめざしたが東シナ海で暴風雨に遭いふたたび船が損傷。9月に辛くも明州に上陸をはたし、ただちに目的地の天台山に向かった。

 翌延暦24年(805)夏に帰国するまでの9~10ヵ月の間、天台教学の始祖天台智顗の孫弟子になる道邃(どうずい)と行満(ぎょうまん)に天台教学を、また道邃からは『梵網経』の「十重四十八軽戒」を、翛然(しゅくねん)からはを、明州に向かう帰途越州の峰山道場龍興寺順暁から密教を、それぞれ受学するなど天台山を中心に当時の中国仏教を精力的に修学した。
 同年7月に帰京し、唐から持ち帰った仏典類の230部460巻を「将来目録」として上奏するとともに、病床にあった桓武天皇の病気平癒を宮中において祈願した。桓武は最澄の「将来目録」から日本に密教がもたらされたことを知って大いに喜び、9月には早速高雄山寺において潅頂を行わせ、南都仏教の長老たちを呼びつけて受法させたほか、自らも受法した。

 しかしその後最澄を重用していた桓武天皇が崩御し、最澄の運気にもかげりが見えはじめる。この年の秋10月、在唐20年を義務とする留学生として長安にいたはずの空海が、正統密教の伝法8祖となって帰国し、短期ながら長安留学の一大成果を「請来目録」として朝廷に提出し、その内容を知った最澄は自らの密教の不備を察知するのである。

 大同4年(809)7月、空海は最澄が住持をしていた和気氏の私寺高雄山寺に迎えられるが、この時最澄はこころよく住持の立場を譲った。また、空海が高雄山寺に落ち着いたばかりの8月下旬、最澄は弟子経珍を空海のもとにやり、12部55巻からの密教経軌や悉曇関連典籍の借覧を申し出た。経珍にもたせた手紙の末尾では「下僧最澄」とまでへりくだっている。
 しかし、空海はこれを一度断る。密教の受法は師から根機の弟子に口授をする「師資相承」が習いで、まして密教の儀軌や悉曇の経軌を書写しそれを読んだところでわかるわけがなく、それを心得ないためかいきなり密教典籍の借覧を申し出てきた最澄のマナーや真意にいぶかしさをおぼえたであろう。

 それでも最澄は空海のもとに使いをやり借経をつづけた。空海もそれに応じた。さらに最澄は自分の代りに勝れた弟子を空海のもとに置き密教を学ばせることを申し出たが、空海はこれも了承した。
 空海のもとに派遣されたのは最澄の最も信頼厚い円澄泰範らであった。最澄は、比叡山の遮那業(密教)の指導者あるいは試験官を養成する目的だったであろう。しかし、好事に魔は多く、やがて愛弟子泰範があろうことか比叡山と最澄を捨て空海に走るという、最澄にとって痛恨事に発展した。その原因はおそらく、最澄がずっととりつづけた密典の借覧・書写・読解といった独学自習がいかに密教の師資口授の鉄則に違背しているか、それを我慢して貸しつづける空海の神経をどれだけ逆なでしているか、空海のもとで密教をじかに修めていた泰範には師の無神経な誤ちがたまらなくなったのであろう。泰範はもと南都の元興寺にいた。若き日に大安寺や元興寺や興福寺ほかの官大寺に出入りしていた頃の空海と、その頃から気脈を通じていたのではあるまいか。

 弘仁3年(812)11月、高雄山寺で空海から金胎両部の潅頂(「受明潅頂」)を受けるが心中に期待をしていた正式な潅頂(「伝法潅頂」)ではなく、大いに落胆する。
 弘仁4年(813)になると、最澄は空海に再度潅頂(「伝法潅頂」)の要請をする一方、空海のもとから帰る気配のなくなった泰範にたびたび手紙を送り、彼に預けたままの『止観弘決』を返してほしいと厭味も添えるようになる。そしてこの年の11月になって、最澄は『理趣釈』(『大楽金剛不空真実三摩耶経般若波羅蜜多理趣釈』不空訳、略して『理趣釈経』ともいう)の借覧を申し出る。
 『理趣釈』とは、『金剛頂経』系密教の奥義を説いた『般若理趣経』(『大楽金剛不空真実三摩耶経般若波羅蜜多理趣品』不空訳)の注釈である。『般若理趣経』では大毘盧遮那他化自在天において、人間の性欲さえも菩薩の清浄な心位に価値転換できる「生仏一如(凡聖不二)」・「煩悩即菩提」の境地を男女交合の悦楽をメタファーに説くためやたら密教未修学の者には与えない。与える場合は、師が弟子の機根をよく見極め、講伝という厳粛なかたちをとる。師と離れたところで独学自習することなどもってのほかである。最澄はそれを心得なかったのであろうか。『理趣釈』を空海から借りて一人読解しようとした。空海がこれに応ずるはずがなかった。

 空海は返事して言う。(「叡山ノ澄法師理趣釈経ヲ求ムルニ答スル書」(『性霊集』))

 忽チニ封緘ヲ開イテ、具ニ理趣釈ヲ覓ムルコトヲ覚ル。
然リト雖モ疑フラクハ理趣端多シ。求ムル所ノ理趣ハ何レノ名相ヲ指スヤ。
 夫レ理趣ノ道、釈経ノ文、天ノ覆フコト能ハザルトコロ、地モ載スルコト能ハザルトコロナリ。

 冀クハ子、汝ガ智心ヲ正シクシ、汝ガ戯論ヲ浄メ、理趣ノ句義、密教ノ逗留ヲ聴ケ。

 夫レ秘蔵ノ興廃ハ唯汝ト我ナリ。汝若シ非法ニシテ受ケ、我若シ非法ニシテ伝ヘバ、
則チ将来求法ノ人、何ニ由テカ求道ノ意ヲ知ルコトヲ得ン。
非法ノ伝受、是レヲ盗法ト名ヅク。即チ是レ仏ヲ誑ス。
又秘蔵ノ奥旨ハ文ヲ得ルコトヲ貴シトセズ、唯心ヲ以テ心ニ伝フルニ在リ。
文ハ是レ糟粕、文ハ是レ瓦礫ナリ。

 又古ノ人ハ道ノ為ニ道ヲ求ム。今ノ人ハ名利ノ為ニ求ム。
名ノ為ニ求ムルハ求道ノ志ニアラズ。求道ノ志ハ己ヲ道法ニ忘ルナリ。

 子若シ三昧耶ヲ越セズシテ、護ルコト身命ノ如クシ、
堅ク四禁ヲ持テ愛スルコト眼目ニ均シクシ、教ノ如ク修観シ、
坎ニ臨ンデ績アラバ、則チ五智ノ秘璽、踵ヲ旋ラスニ期シツベシ。
況ンヤ乃チ髻中ノ明珠、誰カ亦秘シ惜シマン。

 文の途中で最澄を「汝」「子」と見下しながら、くどいほどに暗喩を借り、最澄の密典読解の態度や『理趣経』に対する無知を暗に批判し、無神経な借経の申し出に応じない。

 この2年半後、二人の関係は自然消滅的に途絶える。

 蛇足であるが、「叡山ノ澄法師理趣釈経ヲ求ムルニ答スル書」の「澄法師」とは円澄(第2代天台座主)のことで、最澄は『理趣釈』の借覧を申し出てはいない、空海と最澄の関係途絶はこの『理趣釈』の借覧が原因ではなく、密法受法の礼法をわきまえず密典の独学読解を続ける最澄に空海が嫌気して引いただけ、という説がある。
 しかし、この書簡にある「夫レ秘蔵ノ興廃ハ唯汝ト我ナリ」の文意からしても、当時の日本密教を担うのは最澄と空海以外にはなく、「叡山ノ澄法師」とは最澄であることは明らかである。空海のもとで空海の密法を親しく受学し、密法受学の礼法である面授・口授をよく知る円澄が師の最澄をさしおいて秘奥の密典『理趣釈』に手を出すことなどありえまい。

 時に、最澄は空海との間で密教に苦悶したが、会津磐梯山にいた法相の学僧徳一にも悩んだ。晩年に5年つづいた「三一権実諍論(論争)」である。そのため、会津から常陸にかけて徳一の教団勢力に阻まれ、念願の東北地方への教線拡張をはたすことができなかった。
 正直な性格により真摯かつ厳格な修学僧として比叡山を舞台に天台の教義と密教・禅・戒律・念仏などを組織化し、平安時代の国家仏教の担い手たるべく奮闘をした最澄であったが、生涯の後半は多事多忙となり自らの天台の教義を体系化するに至らないまま、弘仁13年(822)6月4日、56才で示寂した。

 この12年後の承和元年(834)3月、宣旨によってこの山に上った空海は6人の高弟とともに西塔院の落慶供養に参じ咒願師の役をつとめた。空海は生涯を了えるちょうど1年前、よきライバルであった最澄の比叡山に詣でたのである。感慨は無量だったであろう。

 最澄以後、四宗兼学のこの山は多くの英俊を輩出し、最澄の未完の仏教はさまざまに発展をした。その意味では、最澄は弟子や孫弟子たちに多くの課題を残して逝った仏道教育者だったとも言えよう。

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