興福寺は朝廷貴族の筆頭藤原氏一門の氏寺である。私寺であって官大寺であった。南都法相の論学をもってその法統とする。その故に、北円堂にはインド大乗仏教瑜伽行派(唯識派)の論師として名をはせた無著(むぢゃく)・世親(せしん)兄弟の尊像が祀られている。
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「四姓」とは、天皇から賜姓された四つの氏姓をいい、「源(みなもと、げん)」・「平(たいら、ぺい)」・「藤原(ふじわら、とう)」・「橘(たちばな、きつ)」をいう。
また「朝臣」とは、天武天皇が制定した位姓「八色の姓(やくさのかばね)」すなわち「真人(まひと)」・「朝臣(あそみ・あそん)」・「宿禰(すくね)」・「忌寸(いみき)」・「道師(みちのし)」・「臣(おみ)」・「連(むらじ)」・「稲置(いなぎ)」のうちの一つである。
源・平・橘は皇族から臣籍へ降下する際に賜姓され、藤原はもと中臣氏で鎌足・不比等親子に賜姓された。
鎌足の死後、藤原氏は一時衰亡の危機もあったが、不比等の時代以降、藤原氏は権勢を欲しいままにし、藤原氏か皇族出身の源・平・橘の姓でなければ官位につけないといわれた。のち、摂政・太政大臣・右大臣・左大臣などの重職は藤原氏のさらに一部の一族の独占するところとなった(五摂家・清華家など)。
その子の冬嗣は、「薬子の乱」の折嵯峨天皇の側近(蔵人)の一人として頭角をあらわし、乱平定に功をあげていた。冬嗣は当然、嵯峨から空海の人となりや事蹟について聞いていたはずである。父が空海に頼んだ南円堂建立の事業を自分が継続して行う縁に恵まれたことを大いに喜んだにちがいない。
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南円堂完成のあと、藤原北家の力は益々強くなり、内麻呂・冬嗣ゆかりの南円堂は興福寺のなかでも特殊な位置を占めるようになった。空海は帰国後ほどなくして、京の和気氏と南都の藤原氏という朝廷内で勢力拮抗する貴族の一門を共に味方につけたことがこの事例からもわかる。吉運であった。