空海の身辺は多用多忙がつづいていた。
高雄山寺には実弟である真雅(後の東大寺別当、東寺長者)が来て弟子になるなど、少しずつ密法の弟子の養成がはじまっていた。
年甫テ九歳、郷ヲ辞シ、都二入リ、兄空海二承事シ、真言ノ法ヲ受学ス。(『三代実録』)
別当となった東大寺も官務として堂塔の整備に追われ、さらに講義や法会を通じて密教化の基礎も固めなければならなかった。そこに弘仁2年(811)11月、嵯峨から長岡京の乙訓寺を別当として修築する勅が下った。
乙訓寺は、桓武天皇が平城京を廃して長岡京を造営した際に新都の七官大寺の筆頭として大増築をした。境内は南北100間あったという。そこに、造営使の藤原種継暗殺事件に連座した疑いで桓武の実弟だった早良親王が幽閉された。早良は無実を訴えつづけたが、淡路島に流される途中河内国の高瀬橋の付近で怒りに満ちたまま命を落としている。桓武の後を継いだ平城は、この早良親王の怨霊に悩まされ神経を病んだ。乙訓寺はこの早良親王の怨霊のせいか人法振るわず、以後は荒れていた。おそらく嵯峨は、朝廷の内に隠然と宿る早良の怨霊(御霊)の魂鎮めのために空海の密教をたのんだに相違ない。
この怨霊(御霊)の魂鎮めは、後に空海の後を追うように御霊会として神泉苑や東寺や西寺で行われ、やがて町衆の祭礼(伏見稲荷の稲荷祭(神幸祭)、松尾大社の松尾祭、八坂神社の祇園祭など)に発展してゆく。早良親王の怨霊は「六所御霊」の最初にあげられている。
空海はここに1年止宿して復興に当った。ほぼ務めを果たし高雄山寺に帰ろうといていた弘仁3年(812)10月、最澄が突然、興福寺維摩会の帰り道、弟子の光定をともなってわざわざたずねてきた。空海の正統密教の教示と潅頂受法を要請するためであった。太宰府以来の奇しき対面であった。
おそらく最澄は、内供奉禅師として宮中に出仕した際、あるいは興福寺維摩会に参列した際、空海が東大寺の別当になったことを知って、勢いと運が空海に傾いていることを察知したにちがいない。しかし最澄は最澄で自らの天台宗を確立しなければならず、大乗「菩薩戒」の戒壇建立の夢もある。引くに引けない思いが募るなかで、自らの密教の不備は空海にへりくだってでも正しておきたいと腹をくくったのかもしれない。最澄は正直な人であった。
乙訓寺ニ宿シ、空海阿闍梨ニ頂謁ス。
教誨慇懃、具ニ其ノ三部ノ尊像ヲ示シ、又曼陀羅ヲ見セシム。
即チ告ゲテ曰ク。空海生年四十、期命尽クベシ、
持スル所ノ真言ノ法ハ、最澄闍梨ニ付属スベシ。(『伝教大師消息』)
最澄大唐ニ渡ルト雖モ、未ダ真言ノ法ヲ学バズ。
今望ラクハ大毘盧遮那胎蔵及ビ金剛頂法ヲ受学セン。(『伝教大師消息』、円澄の引用)
空海は最澄の要請に応じた。その翌々日、空海は乙訓寺を発って高雄山寺に帰り、11月15日には金剛界、12月14日には胎蔵界の潅頂を行った。
阪急京都線「長岡天神」駅から約2キロ弱、JR東海道線「長岡京」の駅から約2.5キロ、車で10分のところに、乙訓寺がある。観光案内の標識に従ってたずねてみると、今は住宅地にこじんまりとまた遠慮気味にたたずんでいる。往時は奈良の官大寺に匹敵する大伽藍の威容を誇ったにちがいないが、今は昔の面影を偲ぶことも無理である。
現在は真言宗豊山派総本山長谷寺の末寺で、ご本山の有名な牡丹庭園を模範にされたのか境内のあちこちにみごとな牡丹園が整備され、ゴールデンウィークにはたいへんな人出だと聞いた。古寺の法灯を守りながら、花の寺として再生の道を歩まれる山容整備のご苦労がそこここに偲ばれる。
往時は「柑子(こうじ)」という柑橘が境内に実っていて、空海は嵯峨にそれを贈ったという。現在もミカンの木があり、そのそばに説明札が立っている。
乙訓寺ニ数株ノ柑橘アリ。例ニ依ッテ交ヘ摘ンデ取リ来レリ。(『性霊集』)
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