勅ニ依リ東大寺ニ渡リ、南院(真言院)ヲ建立ス。(『御遺告』)
弘仁元年当寺別当ニ補ス。勅ニ依テ西室第一僧坊ヲ賜フ。
寺務、四箇年。(『東大寺縁起』)
大法師空海。讃岐国多度郡人、佐伯氏、元大安寺僧、
勅有リテ東大寺ニ移ル、弘仁元年任、・・・寺務四年(『東大寺別当次第』)
弘仁元年(810)、おそらく夏近く、勅命により空海は奈良東大寺の別当に任じられ、西室の第一僧坊に止住し南院(真言院)を建立したという。高雄山寺に入ってまだ1年、空海にはまだ密教流通の実績もなかった。にもかかわらず早々と国家仏教の頂点に立つ大抜擢となった。
この時期東大寺には修築別当として山内の堂塔の修繕や建立に腕を振るった実忠和尚(良弁の高弟)が80才の高令ながらいた。空海は、ここに4年止住したのだが、別当の実務やその他の寺務(長官の職務)も実際はほとんど実忠らに任せたであろう。空海が別当の職にあることに第一義があった。
空海は在職4年で別当職から離任するが、しばらくして弘仁13年(822)2月、南院(真言院)に潅頂道場を築き、そこに21人の定額僧を置いた。その年「薬子の乱」で出家した平城上皇がそこで空海から潅頂を受けたといわれている。おそらく「受明潅頂」だったに相違ないが、平城は親子して空海の弟子になったことになる。嵯峨から内々の頼みがあったのかもしれない。
空海は、東大寺という国家仏教の中心に身を置き、また天皇や朝廷という国家権力の中枢にかかわりをもちながら、その権謀術数の渦に巻き込まれることなく、逆に世俗の欲望や争いを超越しかつ自らの密教世界に引き入れて浄化し、いわば「王法仏法」の現場をしたたかにこなしているかのようであった。
南院(真言院)の伽藍は、永承2年(1047)には檜皮葺3間四面堂宇1棟、同3間四面僧坊1棟、同5間四面僧坊1棟、同西大門1宇、同東門1宇が荒廃していたという。空海の頃はこんなものではなかったろう。
毎年正月には「後七日御修法」(天皇の玉衣を加持する修法)が行われた宮中の真言院の潅頂道場は、中心の堂宇である壇所には身舎に2壇、東西と北のひさしに聖天壇、息災壇、増益壇の3壇を配し、南庭には神供の小壇が置かれた。東に長者坊、西に護摩堂、北に伴僧の宿所や厨所・雑舎、それらを囲むように垣根を築き四辺には門を配している。東大寺南院(真言院)の潅頂道場は国家仏教の総本山に「国家のために」新造したものだったから、国立の潅頂道場として、東大寺密教化の中心として、この程度の規模ではあったはずである。
ところで、真言院に潅頂道場を置くことを命じた官符に「東大寺に国家のために潅頂道場を建立する」とある。別当という官職を離れたとはいえ空海の上表も「国家のために」となっていた。私は、「国家のために」空海が東大寺に潅頂道場を設置した構想には、国家仏教の雄としての東大寺の復権が意図されていたように思う。
別にふれたように、東大寺の「具足戒」の戒壇は国家仏教の権威そのものであった。官僧になる者は、東国・西国以外は皆この東大寺で授戒をしなければならない。東大寺はまた官僧の認定や各宗の年分度を決める国家仏教最高の行政機関でもあった。最澄は東大寺の「具足戒」に対抗して、これを小乗戒として破棄し、大乗「菩薩戒」(『梵網経』に説く「十重四十八軽戒」)による受戒制度を希求していた。最澄の終生の念願は、比叡山の上に大乗「菩薩戒」を授ける国家認定の大乗戒壇を置くことであった。そこで受戒をすることで官僧の認定が可能になれば、官僧希望者は旧都の東大寺より京の最澄のもとへ集まる。それは天台宗の勢力拡大につながり国家仏教としての地歩を固めることにもつながるはずであった。
そんな最澄の大乗戒壇へのこだわりともくろみを「そんなアナログな考えはもう古い。私はもっと上を行く」と見下すかのように、空海は密教の最高秘儀である潅頂を東大寺に持ち込みさっさと国家的権威の地位につけた。
潅頂とはもともと、国王の即位式において四海(世界)を象徴する水を国王の頭上にそそぎ、四海を支配する喩にしたものであった。密教においては(大日)如来の五智をあらわす「五瓶」(五個の金属製花瓶)に入れた香水を阿闍梨が受者(弟子)の頭上にそそいで密法を師資相承する秘儀をいう。仏教のイニシエーションとしては、道場荘厳・儀礼作法・教義内容そして師弟の濃密な緊張感や感動、どれも受戒という瑣末な道徳律の契約儀礼の遠くおよばないものである。「王法仏法」の装置としても国立戒壇の比ではない。
受戒は仏教への「初発心」(仏道入門)の儀礼(因位)であるが、潅頂は発心を前提とした「印可」の儀礼(果位)である。幼児と大人の差がある。しかも潅頂は、もともと国王の即位式の儀礼ゆえ、この国では天皇が潅頂を受けることはあってもおかしくはない。すなわち「王法仏法」そのものである。京にいる天皇が旧都の東大寺に来て潅頂を受けるとなれば国家仏教の雄として東大寺は復権する。さらにそれは最澄の大乗「菩薩戒」に追随を許さない。最澄といえども密法においては空海の弟子であるによって。「国家のために」とはそういうことではなかったか。
東大寺別当としての空海には、国家仏教の総本山の密教化とともに奈良の仏教勢力に最澄への優越感を与えることが要請されていた。空海は真言院での潅頂という一つの具体例によってそれらのすべてに対応しようとしたにちがいない。一事は即一切、空海は華厳宗の総本山には華厳思想で答えた。今で言うオペレーションシステム(OS)の先取りである。司馬遼太郎は、空海による東大寺の密教化を、密教のメッキを施した程度だった(南都仏教勢力の意向)と解釈しているが、それは空海の「知」のスケールが見えないからである。
潅頂には多様な種類があるが、一般には「結縁潅頂」「受明潅頂」「伝法潅頂」の三つが知られている。この三種は、潅頂に臨む受者の(密教受法の)根機に応じるもので、一人の受者の心位転昇の三段階をいうのではない。なお、『大日経』の「秘密曼荼羅品」に受者の根機を5段階(の三昧耶)に分けること(五種三昧耶)が説かれている。
第一は、曼荼羅をかざった道場の外から曼荼羅を遥拝するもの(遥見曼荼羅、第一三昧耶)。
第二は、密教に無縁の人であっても曼荼羅壇(潅頂壇)に入れ、「投華得仏」して曼荼羅のなかの一尊と結縁させるもの。その尊の印や真言を、望む者には授けることがある(第二三昧耶)。いわゆる「結縁潅頂」の段階である。
以上の受者はかならずしも密教を志す者とはかぎらない。師と受者の間に師弟の関係も生まれない。以下は密教を受学して正式な真言行者となる心位の者を前提とし、終生師弟の関係がつづく。
第三に、密教を受持し学ばんとする者に弟子の資格を与えるもの(第三三昧耶)。時と場所をえらび、(地面を結界し、その上に造った)曼荼羅壇に受者を引入し、「投華得仏」ののち結縁の仏尊の印と真言を授ける。いわゆる「受明潅頂」(持明潅頂、学法潅頂)の段階である。
第四は、阿闍梨位をえようとする者に、金剛・胎蔵両部の秘印・秘明(最極秘の印と最極秘の真言)を授けるもの(第四三昧耶)。いわゆる「伝法潅頂」の段階である。
第五に、勝れて根機に恵まれ、三密瑜伽に熟達した弟子をえらび、時や場所にこだわらず曼荼羅壇も作法も用いず、自身を曼荼羅と観じ、師が弟子とともに三摩地に入り、以心伝心によって秘儀を授けるもの(秘密三昧耶)、である。
「投華得仏」とは、潅頂道場に導き入れられた受者は覆面(目かくし)をされ、手に「普賢三昧耶」の印を結び、口にその真言(「オン サンマヤ サトヴァン」)を唱えながら、教授役の僧に伴われて曼荼羅壇(潅頂壇)に進み、両手中指を伸ばした先端に「華」(一本の茎に五房がついた櫁の葉)をはさみ、大壇の上に敷かれた「敷曼荼羅」の上にそっと落し、その「華」が落ちた曼荼羅の一尊と仏縁を結ぶ儀礼をいう。
また潅頂の頂点ともいうべき儀礼は、道場内の隅に屏風で囲われた「小壇所」で、師が受者に「投華得仏」で結縁した仏尊の印と真言を授けるところである。その行法中、まさに潅頂の部分にあたるのが「五瓶」の水を師が受者の頭上に3度そそぐ場面である。さらにつづいて師は「五鈷(金剛)杵」を受者の手にもたせ、師から受者へ、受者から師へ、往復すること3度、これをくり返す。そのあと、師は受者が結縁した仏尊の印を結び、受者はそのとおりに自分も結ぶ。次に師は印を結んだまま、その尊の真言を受者に口授する。師が唱えそのとおりに受者も唱えること3度である。受者が結縁の仏尊と「生仏一如」になる瞬間である。
印とは、右手の五指を仏の「五大」とみなし左手の五指を行者の「五大」とみなし、左右の各指(「五大」と「五大」)を互いに結び合わせて「生仏一如」のシンボルにするのである。この時の感激は、法悦以外の何ものでもない。
東大寺の正面入口にあたる南大門をくぐると大仏殿の威容が目に飛びこんでくる。南大門と大仏殿前の門との中間に左右に通る道がある。かつての真言院は今、勧学院となってその左角に建っている。
奈良の名所観光のベテランを自認するタクシーの運転手に、「東大寺の境内に、真言院という塔頭寺院があるはず、そこに行ってください」と頼んでみても即答は返ってこなかった。
じっとしていても汗がにじみだす初夏のある日、訪ねたずねて真言院の門の前に立った。真言院の門前はひっそりと静まりかえっていて、門の内外に人の気配がまったくない。
恐る恐る門の中に入り受付のようなものを探すがそれらしいものは見当たらない。仕方なく境内のなかをあれこれとながめているとかすかに人の声が聞こえてきた。右手の大きなお堂に近づいてみると、勧学院の扁額のかかった正面入口があり、堂内から何やら講義の模様が伝わってくる。このお堂の左手の部屋にやっと人影をみつけた。
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