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050 嵯峨天皇の政と文芸のサポート

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 大同4年(809)10月、高雄山寺に落ち着いたばかりの空海のもとに嵯峨天皇からの使い(大舎人山背豊継)がたずねてきて、『世説(新語)』(後漢末から東晋までの名士の逸話を収めた小説集、宋の劉義慶の編纂)の抜粋文を新しい屏風に揮毫してくれるよう頼んだ。嵯峨は、空海が長安から持ち帰った書の典籍や空海自身の書風にいたく関心をもつほどの書才に恵まれた文人であった。空海と嵯峨との親交はこの時にはじまる。

 嵯峨との親交がはじまって1年も経たない翌年の夏の頃、空海は嵯峨の命により国家仏教の総本山奈良東大寺別当に任じられた。異例の大抜擢人事である。

 折しも嵯峨は、前年春に退位して上皇になったはずの兄帝平城の横暴に手を焼いていた。
 上皇平城は、父桓武天皇の皇太子時代から、臣下藤原縄主の妻で九歳も年上の薬子を情婦とし、その長女を自分の閨に入れておきながら実母とも姦通していた。しかし、薬子は薬子で、平城ばかりでなく藤原葛野麻呂などとも通じていた。平城はその妖女薬子の諜略に乗り、嵯峨を無視して奈良に再び遷都することを宣し、薬子とともに奈良に移って故右大臣大中臣清麻呂の屋敷を仮御所とするに至った。

 嵯峨は兄帝の横暴を当然不愉快に思っていた。しかし表面上は敢えて敵対せず、奈良の平城のために宮殿の造営も行政化した。3人の造営使を任じ京から職工たちも送った。しかし3人の造営使のなかに桓武時代に征夷大将軍として東国を平定した軍将坂上田村麻呂を入れ、東国方面から畿内に入る3ヶ所の関所にひそかに兵力を配置させていた。また自分の配下には蔵人という天皇直属のブレーン組織を置き、巨勢野足藤原冬嗣をすえた。
 平城はそれともしらず、翌年の弘仁元年(810)9月6日、奈良遷都の勅を発した。嵯峨はすぐに動いた。機をみて奈良から上皇平城の側近たちを京に呼び戻し、右兵衛府に監禁して数日のうちに殺した。10日までに3ヶ所の関所をかため、同日薬子の官位(正三位尚侍)を奪った。平城への宣戦布告である。「二所朝廷」の政争はあっけなく決着した。薬子は毒を飲んで波乱の生涯を終えた。平城は剃髪して出家し、皇太子の高丘親王も得度して東大寺に入り空海に預けられた。いわゆる「薬子の乱」である。

 空海の東大寺別当人事はこの朝廷内紛のさなかに行われた。私はこの人事を奈良の旧勢力の一つである国家仏教勢力が平城の奈良遷都に味方しないための嵯峨一流の知略ではなかったかと思っている。
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 奈良で権力を復活させようとしている平城と薬子は依然大きな権勢を誇る南都の仏教勢力を一番先に頼むことは明らかである。その南都仏教の頂点に立つ東大寺の別当は、世事にうとい老僧では心もとなかった。嵯峨が若くて機敏で柔軟な対応力のある空海に目をつけたとしても不思議ではない。
 おそらく嵯峨は東大寺の僧綱所を動かしたであろう。僧綱所はすぐ空海の東大寺別当就任に異論のないことを伝えてきたにちがいない。
 桓武の命により最澄がわが国初の国家潅頂を高雄山寺で行った時、勤操など南都仏教の長老たちは無理に受法の場に引っぱり出され、合点もいかぬまま最澄を師と仰がされ、その密教に従わされた屈辱がある。宗教に身を置く者には異教・異宗に権力で服従させられる屈辱ほどにがいものはない。この人事を南都仏教勢力は最澄に巻き返す好機と受けとったであろう。南都仏教勢力の空海への期待と傾斜は相当に本気だったと思われる。

 空海は「薬子の乱」の後、時機を見て京の高雄山寺に帰った。そこに待ちかねたように阿刀大足などの身寄りの者をはじめ、和気氏関係の貴族、長安の政治や文化あるいは漢籍・詩文に関心のある人、また空海を追って奈良の官大寺の長老たち、さらに朝廷や嵯峨の使いもたずねてきたであろう。洛中からは離れた山寺にいても、「薬子の乱」は時局の話題であったにちがいない。

 空海は早速、10月27日、「国家ノ為二修法シ奉ランコトヲ請フ表」を朝廷に上表し、向う6年間、高雄山寺の山門を閉じて聖朝安穏・天下泰平を祈祷する旨の許可を申し出た。

 其ノ将来スル所ノ経法ノ中ニ、仁王経、守護国界主経、仏母明王経等ノ念誦ノ法門アリ。
仏国王ノ為ニ特ニ此ノ経ヲ説キタマフ。
 七難ヲ摧滅シ四時ヲ調和シ、国ヲ護リ家ヲ護リ、己ヲ安ンジ他ヲ安ンズ。
此ノ道ノ秘妙ノ典ナリ。

 伏シテ望ムラクハ国家ノ為ニ奉ジ、諸々ノ弟子等ヲ率ヰ、
高雄ノ山門ニ於テ、来月一日従リ起首シテ法力ノ成就ニ至ルマデ、
且ツハ教ヘ且ハ修セン。
 亦望ムラクハ其ノ中間ニ於テハ住処ヲ出デズ、余ノ妨ヲ被ラザランコトヲ。(『性霊集』)

 来月(11月)1日から向う6年間、山門を閉じ、寺からは一歩も外に出ず、南都以来鎮護国家の所依の経典として重用されている『仁王経』のほか、自ら請来した護国経典『守護国界主経』『仏母明王経』による念誦法を修し、弟子等とともに高雄山寺全山あげて聖朝安穏・天下泰平を祈祷するので、外から邪魔をされたくないというのである。空海のこの心意気に嵯峨はすこぶる感動したのであろう。早速空海のもとに綿100屯を送り、それに七言八句の詩を付けたほどである。

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 「薬子の乱」を経て、空海は嵯峨とさらに親交を深める。
翌弘仁2年(811)の6月には、『劉希夷集』4巻、『王昌齢詩格』1巻、『貞元英傑六言詩』3巻、『飛白書』1巻を献上し、8月にも『徳宗皇帝真跡』『欧陽詢真跡』『張諠真跡』など多くの墨蹟を献じている。
 また、その翌年6月には、長安で習得してきた製法で自ら作った狸毛の筆4本を、7月には『急就章』『王昌齢集』などを届けた。嵯峨は空海の卒意に満ちた書をことのほか愛し、長安での「五筆和尚」のエピソードを愉快そうに聞いたであろう。空海も中国の書に通じたこの文人天皇に親しみをもって接していた。

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 しかし空海は一方で「王法」と「仏法」の距離感を測っていた。
 不空三蔵玄宗皇帝のために宮中において盛んに祈祷密教を行ったのだったが、結局玄宗はあくまでも唐朝の伝統に従い道教を重んじ不空の密教には傾かなかった。
 また、法相の僧(玄昉・行基・良辨・道慈らとともに元興寺義淵の弟子)ながら「宿曜法」(一種の密教占術、現在真言宗寺院の一部で行われている星供養・星まつり)や「孔雀明王経法」(孔雀明王を本尊とし、病気平癒や請雨・止雨の法を修する祈祷)といった雑密修法をよくし、宮中に出仕して女帝孝謙天皇(後に称徳天皇)の病気を治した功で栄達の道を歩み、ついには太政大臣から法王の座についた傑僧道鏡が、称徳天皇の死後、下野薬師寺の別当となって下った。いわば左遷である。
 空海は、そうした例を他山の石としていたであろう。

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