空海は常州を発ってもと来た「京杭大運河」(古運河)の水運をたどり、再び蘇州・杭州の寺に表敬し越州に向った。運河の流れはずっと順流で、船は大小の区別なく、往路とは比べものにならない速さで航行した。その分主だった町では数日間滞在する余裕ができた。空海はその時間を有効に活用し、往路立ち寄った程度の寺々に再度足を運び今の自分の立場を明かし住持たちと交わりをもったであろう。
「江南の春」も真っさかりの4月20日、空海一行は越州に着いた。この町の水は東シナ海に注いでいる。空海はこの浙江の地に4ヵ月留まるのだが、これは空海の事情ではなく判官高階真人遠成ら遣唐使節の都合であったろう。船の準備などの事情もあったであろう。
この間を利用して空海はいくつものことをこなした。
先ず越州の地方長官(節度使)に「越州ノ節度使ニ与ヘテ内外ノ経書ヲ求ムルノ書」を呈し、仏教の経・律・論・疏・伝記、唐の詩・賦・碑・卜占・医学の典籍、さらに五明(声明(音韻・音学・語法)・工巧明(工芸・技術)・医方明(医術・薬学)・因明(論理学)・内明(仏教の宗学))のうち、済世利民に役立つ書籍を日本に伝えたいので、その入手に便宜をはかってくれるよう要請をした。空海は自らもこれらの典籍の収集にかなりの時間を費やしたにちがいない。
次いで空海は、鏡湖東方の峰山道場に龍興寺の高僧順暁を表敬したはずである。善無畏三蔵の弟子の義林や一行から『大日経』系の密教を受法し、不空から『金剛頂経』系の密法を受けた順暁という老師が越州にいて健在であることを、空海は長安で聞いて知っていた。
越州(現大虞市)、峰山道場 |
|
その順暁をたずねた。順暁は最初、空海の真言付法の第8祖の立場をすぐには理解できなかったと思われる。おそらく日本の若い僧が密教の伝授を乞いに来たものと早合点したにちがいない。前年にその例があったばかりであった。
やっと空海の身分を理解した順暁は態度を改め、師資の関係のように席をゆずり話をつづけて意外なことを率直に告白した。去年の4月の中頃、日本の請益僧最澄が天台山の帰途ここに来訪し、しばらくここに留まって「五部潅頂」を順暁から受け、『大日経』『金剛頂経』『蘇悉地経』の「三部」の三摩地法(念誦法)を授かって帰ったという。
「五部潅頂」とは、伝法の阿闍梨が受者に対し「五仏」(大日・阿閦・宝生・無量寿(阿弥陀)・不空成就)を表す「五瓶」(五つの花瓶、法具)の香水を「散杖」(長さ40㎝程度の細い棒、梅の枝)の先につけ、「散杖」の先から受者の頭上に注ぎ、「五智」(「五仏」の智慧)の宝冠を頭上に載せ、秘印と秘明を授ける、という潅頂秘儀の一部のことである。もともとは金剛界法のものであるが「伝法潅頂」の時は金胎両部ともに行われる。
「伝法潅頂」はたまたま来訪した密教修行未履修の最澄に対しいきなり行われるはずがなく、おそらく「受明潅頂」(学法潅頂)であったろう。空海も恵果和尚からはじめて「受明潅頂」を受けた時に、「五部潅頂ニ沐シ」と言っている。順暁は、自ら授けた潅頂がいかなる段階のものか最澄には言わなかったと思われる。順暁自身、「伝法潅頂」の受法経験がなく、「受明潅頂」しか知らなかったかもしれない。最澄は後年、「受明潅頂」を高雄山寺で空海から受法するが、それが「伝法潅頂」ではないことを知って大いに落胆し、「いつ、正式な潅頂(「伝法潅頂」)が受法できるか」と空海に聞いている。
空海はとくに動ずる態度も見せず青龍寺であったことを縷々話した。順暁は、伝法潅頂受法までは言わなかったであろうが、金胎両部の三摩地法(念誦法)の伝授くらいは空海に懇請したに相違ない。順暁が自分の両部三摩地法の不備を修正したくなる気持がよくわかるからである。空海はそれに応じたと思われる。7日はかかったであろう。空海がこの越州に長く滞在したのにはこうした事情もあったのではないか。
しかし最澄の密教受法を聞いた空海は実際は心おだやかではなかった。最澄が桓武の厚遇を受けていることは、第十六次遣唐大使の藤原葛野麻呂から聞いていた。最澄が密教を持ち帰ったことを桓武が大いによろこび、朝廷にもう密法が広まっている様を想像して、空海は眠れぬ夜を幾晩も過したであろう。
次いで空海は、持ち帰りの品(請来品)の整理と総点検を行った。そのなかで目立ったのは不空訳をはじめとする『金剛頂経』系の経軌の多さであった。このことから、空海は入唐するまでは『金剛頂経』系の密教には審らかでなく、恵果和尚のもとでほとんどはじめて学んだことが想像される。
7月上旬の金剛界「受明潅頂」から8月10日の「伝法潅頂」に至る約1ヶ月の間に、空海は恵果自身あるいは般若三蔵から「金剛界念誦法」の特訓と平行して『金剛頂経』の講義を受けたのではないか。にわか勉強のため日本に帰って復習をする必要があり、『金剛頂経』系の経軌が多くなったと思われる。
『金剛頂経』には、広い意味でいう『金剛頂経』と、狭い意味でいう『金剛頂経』とがある。広義の『金剛頂経』は、十万の頌(音韻をふまえた詩のような短文)からなり、「十八会(十八の説法処による分類)」から成っていた(不空撰『金剛頂瑜伽経十八会指帰』)。しかし、その梵本は金剛智三蔵がインドから海路唐土にもたらそうとして南シナ海の広東の南方沖で暴風に遭い、船の沈没を防ぐために海中に放棄され誰も見ることがなかった。不空は、師金剛智の教えをもとに『金剛頂瑜伽経十八会指帰』を撰述し、『金剛頂経』の原本の概要を明かにしたのである。
「十八会」(じゅうはって)とは、
初 会(第一章)「一切如来真実摂大乗現証大教王」
第二会(第二章)「一切如来秘密主瑜伽」
第三会(第三章)「一切経集瑜伽」
第四会(第四章)「降三世金剛瑜伽」
第五会(第五章)「世間出世間金剛瑜伽」
第六会(第六章)「大安楽不空三昧耶真実瑜伽」
第七会(第七章)「普賢瑜伽」
第八会(第八章)「勝初瑜伽」
第九会(第九章)「一切仏集会挐吉尼戒網瑜伽」
第十会(第十章)「大三昧耶瑜伽」
第十一会(第十一章)「大乗現証瑜伽」
第十二会(第十二章)「三昧耶最勝瑜伽」
第十三会(第十三章)「大三昧耶真実瑜伽」
第十四会(第十四章)「如来三昧耶真実瑜伽」
第十五会(第十五章)「秘密集会瑜伽」
第十六会(第十六章)「無二平等瑜伽」
第十七会(第十七章)「如虚空瑜伽」
第十八会(第十八章)「金剛宝冠瑜伽」
である。
このうちの初会の分が『初会金剛頂経』といわれ、具には、
『金剛頂瑜伽中略出念誦経』(『略出念誦経』)四巻(金剛智訳)
『金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経』(『三巻本教王経』)三巻(不空訳)
『仏説一切如来真実摂大乗現証三昧大教王経』(『三十巻本教王経』)三十巻(施護訳)
の三本がある。うち、不空訳の『三巻本教王経』が日本では通称『金剛頂経』といわれてきた。
空海は、『略出念誦経』と『三巻本教王経』の二本を持ち帰りの荷のなかに入れていた。恵果和尚から『金剛頂経』の特訓を受けた時のテキストだったと思われる。短期間によほど濃密に勉強し、帰国後も筑紫の観世音寺で相当に復習をしたに相違なく、後年の空海の著述にはしばしば二本からの引用が見られる。
余談ながら、第六会の「大安楽不空三昧耶真実瑜伽」はいわゆる『般若理趣経』にあたり、第十五会の「秘密集会瑜伽」は『秘密集会タントラ』(『グフヤ・サマージャ(タントラ)』)である。
さて密教は、サトリ(現等覚、仏智)に到るのに時間をかけないことを大きな特徴とする。「三密」(身(印)・口(真言)・意(観想))を同時に動員する観法(三摩地法)によって凡夫の因位(修行の段階)にある行者が仏尊と無二一体となり、煩悩具足の生身のまま即時即身に成就(悉地・シッディ、果位)に到るとする。
空海が密教に決択した理由は、端的にいってこの成就の速さ(速疾成仏)にある。空海は、これを「即身」「成仏」として後に空海密教の中心思想にする。その「即身」「成仏」のオリジナルというべき成就法が『金剛頂経』にある。『金剛頂経』の経初に説かれる「五相成身観」である。
簡略にして言えば、行者が「(本有)菩提心」を自覚し(「通達菩提心」)、それを自ら発起せしめ(「修菩提心」)、その表象である「心月輪」のなかに「金剛杵」(の姿)を観想し(「修金剛心」)、行者自身が金剛杵そのものに等しいとさとり(「証金剛身」)、金剛界の仏身(金剛界菩薩)となって法界に遍満する一切の如来たちと同質同等(「平等」)であることを覚って金剛界如来となるのである(「仏身円満」)。
この「仏身円満」のレベルは「オン ヤタ サラバタタギャタ サタタカン」(Om
yathā sarvatathāgatās tathā aham オーム ヤター サルヴァタターガタース タター アハム「私は(今法界に遍満する)一切の如来たちがそうであるように、そのようにある」)という真言によって言語化される。しかもこの真言は「自性成就」(プラクリティ・シッディ、成就することを本性としている)、すなわち、唱えればその真言の意味するところの内実が現前に可能となる、そうした「シャクティ」(生み出す力)を本来具えているものだという。
空海は、短時日の『金剛頂経』の特訓のなかで、このシンボル操作ともいうべき真言の代替機能に舌を巻きながら、観想の瞬時にサトリの境界を可能にする密教的成就法のダイナミズムを、言語の異能者として大いに納得したであろう。
空海は、如来の「五大(五輪)」(「地大」(膝輪)・「水大」(腹輪)・「火大」(胸輪)・「風大」(面(眉間)輪)・「空大」(頭頂輪))を表象する「五(つの梵)字」(ア・ヴァ・ラ・カ・キャ)を行者の身体の五ヶ所(膝・腹・胸・眉間・頭頂)に配して観想する「五字厳身観」(『大日経』の成就法)によって、永遠の時間をかけて菩薩行を積み重ねたその果てでサトリに到るという華厳のもどかしさを解決できていた。またそこから進んで、「胎蔵曼荼羅」(蓮華胎生曼荼羅)を華厳の「蓮華蔵世界」とみなし、その一尊一尊と相入する観法を永遠の時間をかける菩薩行に代えて修していたかもしれない。
入唐留学の目的はそれで充足していたはずである。しかし、教理も成就法も曼荼羅も完全にシステム化された『金剛頂経』に出合って新しい密教を知ったのである。空海のなかで華厳は『大日経』ばかりではなく『金剛頂経』によっても超克されたのである。だから、『略出念誦経』『三巻本教王経』と『金剛頂経』系の経典儀軌はたとえ大部であっても持ち帰る必要があった。
|
阿育王寺は西晋時代(282年)の創建になる明州郊外の古刹であった。この寺に744年、鑑真和上らが2度目の渡海に失敗し滞留したことがある。鑑真一行は、官憲によりこの律宗の古刹で軟禁状態になったが、住持ほか山内の僧たちはこの高徳の律僧一行を手荒に扱うはずがなく、やがてここを密かに脱してふたたび渡海するのを助けたと思われる。
ここからは、遠く天台山を遠望することができる。善無畏の『大日経』講義を記録して師とともに『大日経疏』を著した一行は、晩年そこに順錫しそこで示寂した。
唐土を辞する日がきた。空海は紅衛塘の熱砂の浜辺に立って海上安全を修法し、持していた三鈷杵を海中に投げ入れた。伝説では、その三鈷杵が海を越えて高野山に落ちたことになっている。