城中ヲ歴テ名徳ヲ訪フニ、偶然トシテ青龍寺東院ノ和尚、法ノ諱ハ恵果阿闍梨ニ遇ヒ奉ル。
空海西明寺ノ志明談勝法師等五六人ト同ジク往ヒテ和尚ニ見ユ。
和尚忽チ見テ笑ヲ含ミ、喜歓シテ告ゲテ言ワク。
我先ヨリ汝ガ来レルコトヲ知リテ、相待ツコト久シ。
今相見ユルコト大ヒニ好シ、大ヒニ好シ。
報命竭キナント欲スルニ付法ニ人ナシ。
必ズ須ク速カニ香花ヲ弁ジテ、潅頂壇ニ入ルベシト。
六月上旬ニ学法潅頂壇ニ入ル。
是ノ日大悲胎蔵ノ大曼陀羅ニ臨ミ法ニ依リテ花ヲ抛ツニ、
偶然トシテ中台毘盧遮那如来ノ身上ニ着ク。
五部潅頂ニ沐シ、三密加持ヲ受ク。
是ヨリ以後胎蔵ノ梵字儀軌ヲ受ケ、諸尊ノ瑜伽観智ヲ学ス。
七月上旬ニ更ニ金剛界ノ大曼荼羅ニ臨ミ、重ネテ五部潅頂ヲ受ク。
亦抛ツニ毘盧遮那ヲ得タリ。和尚驚嘆シタマフコト前ノ如シ。
八月上旬ニモ亦伝法阿闍梨位ノ潅頂ヲ受ク。
是ノ日五百ノ僧斎ヲ設ケ、普ク四衆ヲ供ス。
青龍大興善寺等ノ供奉大徳等、並ビテ斎筵ニ臨ミ、悉ク皆随喜ス。
『金剛頂瑜伽』五部真言密契相続ヒテ受ケ、梵字梵讃間モテ是ヲ学ス。
宣シク是ノ両部大曼荼羅、一百余部ノ金剛乗ノ法、及ビ三蔵転付ノ物、
並ビニ供養ノ具等、本郷ニ帰リテ海内ニ流伝センコトヲ請フ。
纔ニ汝ガ来レルヲ見テ、命ノ足ラザルヲ恐レヌ。
今即チ授法ノ在ルアリ。経像ノ功畢ンヌ。
早ク郷国ニ帰リ、以テ国家ニ奉ジ、天下ニ流布シテ、蒼生ノ福ヲ増セ。
然レバ則チ四海泰ク万人楽シマン。是則チ仏恩ヲ報ジ師徳ヲ報ズ。
国ノ為ニハ忠ナリ、家ニ於テハ孝ナリ。
義明供奉ハ此処ニシテ伝ヘン。汝ハ其レ行キテ、是ヲ東国ニ伝ヘヨ。
努力、努力。(「請来目録」)
青龍寺は、西明寺とは正反対の方角、東側の城壁南門の「延興門」の目の前、左街の最東辺、新昌坊南門の東の高台にあった。当時は参詣者も多くにぎやかな密教寺院であったらしい。
隋の文帝によって582年に「霊感寺」として創建された。唐代の初期には戦乱のため一時廃寺になったが、高宗の時に先帝太宗の娘城陽公主が病に倒れ、法朗という密教僧(三論宗の法朗ではない)が真言を唱えると霊験があり公主の奏上により再興されて「観音寺」となった。その後睿宗の711年、改名されて「青龍寺」といわれるようになった。
恵果の時代までは密教寺院だった形跡はないが、恵果のほか恵応、恵則、惟尚、弁弘、恵日、義満、義明、義照、義操、義愍、さらにその弟子らの高僧が輩出し、平安時代に入唐した留学僧八人(最澄、空海、常暁、円行、円仁、恵運、円珍、宗叡)のうち六人を教えた。そのうち義操は空海と並ぶ正嫡で、さらに日本僧とは大変縁が深く、円行・円仁・円載・円珍・宗叡らはその高弟の義真や法全から金胎の大法を受法している。恵果が衣鉢を託した義明は不運にも若くして没している。
しかし、845年に武宗が強行した「会昌の廃仏」は西明寺を含む4ヵ寺を残し90十を超える仏教寺院をことごとく破壊し、青龍寺もまた容赦ない法難に遭った。幸い、翌年「護国寺」として復興し、855年にはもとの青龍寺と呼ばれるようになった。この年円珍が長安に入り、青龍寺で法全に師事している。
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恵果(746~805)は、幼少時に出家し当初から青龍寺に入り聖仏院の曇貞を師とする。その後不空に師事し、20才で「具足戒」を受け『金剛頂経』系の密法を受法した。2年後、善無畏門下の玄超から『大日経』系の法を授かった。30才の755年、青龍寺東塔院に潅頂道場を下賜され、宮中内道場の護持僧に任じられた。789年には、日照りに際し請雨法を修し徳宗の帰依を受けた。802年病をえて愛弟子義明に後事を託し、804年般若三蔵の醴泉寺に金剛界曼荼羅を造り、般若ほか諸大徳が法筵に随喜した。その時請雨を修しその功顕があったという。
最晩年の805年空海とめぐり合い、義明とともに空海に金胎両部の大法を授け、そのほか50種からの諸尊念誦法を伝授し、曼荼羅・密法具・付嘱物を与えた。同年12月15日に、東塔院で示寂した。遺骸は場外の龍原にある不空の塔の側に埋葬された。弟子を代表して空海がその碑文を撰した(「大唐神都青龍寺故三朝国師潅頂阿闍梨惠果和尚之碑」)。
さて空海は、般若の助言に従い、延暦24年(805)6月12日、西明寺で親しくなった志明・談勝らとともに青龍寺東塔院に恵果和尚をたずねた。この時期までに空海の梵語力は相当のレベルに達し、華厳経と華厳思想の本場の解釈も身につけ、『大日経』も具縁品の最後まで学解ではほぼ掌中に収め、命がけの渡唐の目的はほぼ達成していたといっていい。ただ、般若の言う両部の大経は会得するもの、密教とはそういうもの、という真意がよくわからないでいたので、そのこともあって恵果に会い『大日経』の密教的な受法が叶うかどうかだけでも聞いてみたかったのである。
幸い、その日空海は恵果に会えた。見るからに病弱の気配がありありの老師であったが空海を見るや否やいきなり「君が長安に来ていることは知っていた。いつ来るかとずいぶん待ったものだ」と喜んだ。おそらく、情報源は般若三蔵であったろう。般若が空海の異能を一番早くまた最も濃密に見抜いていた。それをすぐ恵果に伝え、恵果の正嫡候補として推薦していたと思われる。般若は恵果の最期が近いことを察していた。さらに恵果に1000人を超える弟子がいても、そのうち両部の大法を授けた高弟が何人かいても、まだ正嫡に価する機根の弟子には恵まれていないことが恵果の懊悩であることもよく承知していた。
恵果は空海の尋常でない機根を般若から聞いて、ほぼ正嫡に価する法器であると心に期してはいた。般若によれば、空海のとくにサンスクリットの語学力が抜群であるという。例えば、金胎両部の念誦法にしろ、諸尊供養法にしろ、行法のなかの真言はそれを聴いた瞬間にほぼ、サンスクリットそのものの意味が、あるいは唐語や和語への訳語変換が、わかるというほどにである。そのレベルにしてはじめて密法は正しく伝わるのである。それこそが伝法の本来的な実体である。般若が空海を恵果の待ちわびる正嫡候補として推薦をする主因はそこにあったにちがいない。
空海に直接接した恵果は、般若の推薦が誤りでないことをすぐ悟った。即座に潅頂を授けようと言い出した。空海はその意味を計りかねた。空海にはそこまで密教というものがわかっていなかった。空海にわかる密教とは山岳修行レベルの雑密と『大日経』の学解だけであった。空海は恵果の真意を恐る恐る聞いたであろう。恵果は苦笑しながら、恵果を今最高の依止師とする「金胎不二」の密教の奥義を諄々と説いた。ここではじめて空海は仏教思想の最新バージョンを知った。教理的には華厳の理解が役に立った。奈良で学んだ三論(中観)や法相(唯識)も大いに役立った。しかし恵果の密教はそれら大乗を大きく超えていた。
恵果の話を聞き、釈尊の仏教から密教までの全仏教史が「無執著」「無我」「空」「縁起」「法性」「仏性」「本覚」「諸法実相」「法界」「法身」「生仏一如」「菩提心」「速疾成仏」という、一連の教理概念の連鎖として空海の腑に落ちた。だからその瞬間、ここで恵果の勧めに従い金胎両部の大法を受法することがとりもなおさず仏道をえらんだ自分を全仏教思想史のなかに投帰することであり、この望外のチャンスを逃す手はないと悟った。
空海は慇懃に、「密教の修行未履修の私が潅頂の壇に入っていいのか」と聞いたであろう。恵果は笑って「君の機根はすでにそれを越えている、明日潅頂をやろう」と言った。同席した志明も談勝らも大いに喜んだ。一番喜んだのはむしろ恵果だった。空海はすぐ般若にこのことを伝えた。般若は懇切に潅頂受者の心得から準備するもの、さらにこれから必要な修学について細かな助言をしてくれた。
翌6月12日、空海は胎蔵界の「受明潅頂」(「学法潅頂」)を受け、7月上旬に金剛界の「受明潅頂」を受けた。「受明潅頂」とは、密教を受持しこれを学ばんとする者に弟子の資格を与えるいわば略式の潅頂である。とはいえ、潅頂の秘儀で一番に重要な「投華得仏」とその結果結縁した曼荼羅中の一尊の秘印(最極秘の印)・秘明(最極秘の真言)の授受は行う。
「投華得仏」とは、道場に引入され覆面(目かくし)をされた受法者が、手に「普賢三昧耶」の印を結び、口にその真言(「オン サンマヤ サトヴァン」)を唱えつつ、教授の僧に伴われて曼荼羅壇(潅頂壇)に進み、両手中指の間の先端に「華(五房が一本の茎についた樒の葉)」をはさみ、大壇の上に敷かれた「敷曼荼羅」の上に投げ落し(「投華」)、「華」が落ちた曼荼羅の一尊と仏縁を結ぶ(「得仏」)儀礼をいう。空海は、6月の胎蔵界につづき7月の金剛界の時も「華」が曼荼羅中央の本尊大日如来に落ち恵果を驚嘆させた。恵果は空海の言語の異能のほかに奇瑞を起す霊威的気質にも目を見張りながら、胎蔵界大日と金剛界大日それぞれの秘印と秘明を授けたに相違ない。
6月の胎蔵界「受明潅頂」のあと、空海は胎蔵界の梵字と儀軌の伝授を受けたという。つまり今でいう「胎蔵界念誦次第」であろう。これによって胎蔵界の三摩地法(念誦法)の練磨に入ったのである。空海はそれを1ヶ月ほど行った。そして7月の金剛界「受明潅頂」のあと、同じように「金剛界念誦次第」の伝授を受け、それによって金剛界三摩地法の練磨を重ねた。それもまた1ヶ月ほどである。
当時は、念誦法の「作法次第」(儀軌)を(当然ながら)筆写した。今は、印刷製本されたものを本山が用意しているので筆写の必要がない。何十種もの真言を書き写しその意味を理解するのには、梵字・悉曇つまりはサンスクリットに通じていなければ書写している字も意味もわからない。空海は、それを相当にマスターできていたため、筆写も実際の行もまちがわずにできたはずである。1ヶ月程度という短い期間であったのは、もちろん恵果が体調を考慮して急いだことでもあるが、空海がすでに三摩地法の修行に必要な素養を充分に具えていたからにほかならない。
次いで、胎蔵界の潅頂道場に引入され、覆面(目かくし)をされ、「普賢三昧耶」の印を手に結び、その真言「オン ?サンマヤ ?サトヴァン」を口に唱え、曼荼羅壇の側まで進み、そこで「投華得仏」した。さらに恵果の待つ「小壇所」に入り恵果から「五瓶」の水を頭上に注がれた。これが文字通りの潅頂である。そして潅頂の秘儀中の秘儀である秘印と秘明の口授に移った。空海は五智の宝冠を頭にかぶせられ、胎蔵界大日如来の秘印と秘明を授かった。
伝法潅頂の様子を伝える絵 |
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同じ日つづけて金剛界の潅頂が行われ、空海は胎蔵界と同様の流れで金剛界大日如来の秘印と秘明を授かった。
潅頂の秘儀中受者の空海は恵果阿闍梨に従い滞りなく印を結び真言を唱え、いくつもの作法所作を違えることはなかった。6月上旬から8月上旬までの両部念誦法練磨の賜物であった。
「請来目録」の当該記述では、
『金剛頂瑜伽』、五部真言、密契、相続ヒテ受ケ
とだけあるので、この時の「伝法潅頂」は金剛界のみであったやに読めるが、空海のための「伝法潅頂」はまさに金胎両部の受法であったことは義明と並んで付法の誉れに浴したことからも明らかである。
空海は、一介の私費留学生から一躍阿闍梨の師位をえて、真言付法の第八祖「遍照金剛」となった。空海がこれまで積み重ねてきたすべてが一気にそして速疾に結実したのである。般若は、空海の晴れの姿を称え、何度も「めでたし、めでたし」と言ったであろう。しかし、恵果のもとで何年も修行を積みながら未だ潅頂に浴しない者や、「受明潅頂」の段階で止まっている者や、「伝法潅頂」も金・胎いずれか片方しか受法していない者が大半であったから、ついきのう恵果のもとにきた空海が多くの弟子を飛び越えるこの大抜擢には山内に不平不満も出たであろう。恵果はかまわず供奉丹青博士の李眞や供奉鋳博士の楊忠信を呼び、曼荼羅や密法具の製作を命じ、不空から授かったものや自分の付嘱物を空海に与えた。そして「この法をすぐに日本に持ち帰りそれを弘めなさい、それが私への報恩になる」と諭した。空海の目からは感涙が溢れていたであろう。
秋にかけて、空海の日々は一変した。西明寺の居室を早朝に出て1日中青龍寺の恵果のもとで各種の伝授を受ける日がつづいたと思われる。この時期に、空海が入唐後おそらく最も渇望していた『大日経疏』の伝授があったのではないか。『大日経疏』は725年に善無畏三蔵が漢訳した『大日経』の註釈であり、善無畏が講じ弟子の一行がそれを筆受し註釈を加えた『大日経』理解のための必読のテキストである。しかも後の空海が独自の密教を構想するのに大変大きな論拠となった。真言宗の伝統では古来、能化(総本山の住持)が根機のある所化(伝法潅頂ほかの大法を履修した阿闍梨位にある者)に伝授する習い(講伝)となっている。
空海は、この『大日経疏』をはじめ新訳の密典・儀軌・梵字真言讃を書写生に頼んで書写しはじめ、橘逸勢たちの手も借りて『四十華厳』ほか修学の記録を書き留めることもはじめたであろう。詩文や書の書籍も集め、注文した絵図や法具のほか筆や墨に至るまで作らせ、日本に持ち帰る算段をはじめた。橘逸勢は「君は、国禁を犯してまですぐにでも帰るつもりなのか」といぶかったであろう。
空海は幸運というか、折りしも同じ第十六次遣唐使船団の僚船で東シナ海で遭難し那ノ津に引き返していた判官高階真人遠成率いる第4船が単独で渡唐し、朝貢のため長安に入っていることを聞いて知っていた。さらに鴻臚館に滞在中の判官に直接面会し、自分が奇跡的に受法したえ難き仏法を早く日本に持ち帰り国家のために役立てたいため、国禁を破ってでも判官とともに帰国したい旨を申し出(「本国ノ使ニ与ヘテ共ニ帰ルコトヲ請フ書」(『性霊集』))、いかに国家のために有益かを必死に説いたであろう。真人はこの国禁破りの尋常でない申し出に官吏として苦慮しながらも、事の重大さを理解し早速空海の帰国を唐朝に奏上し、ほどなくその許可が下りたのである。
貞元二十年(八〇四)、使ヲ遣シテ来朝ス。留学生橘免勢、学問僧空海。
元和元年(八〇六)、日本ノ国使判官高階真人上言ス。
前件ノ学生、芸業稍ヤ成リテ、本国ニ帰ランコトヲ願フ。
便チ臣ト同ジク帰ランコトヲ請フ。之ニ従フ。(『旧唐書』)
そうこうする間に、年末の12月15日、師恵果が自坊の東塔院で示寂した。空海はまさに、恵果の恵命が尽きるぎりぎりの時間に間に合って師法をほぼすべて授受したのであった。惠果の遺骸は、翌年(大同元年(807))正月16日に埋葬された。
空海は師の埋葬を見届けると帰国を急いだ。手配していた曼荼羅ほかの品々も皆できあがってきた。空海が長安を辞した日はわからないが、その年の4月にはもう浙江にいたことが判明していることから、2月中旬から下旬には長安を発っていたと思われる。
盛大な送別の宴が催されたという。醴泉寺の般若三蔵や牟尼室利そして霊仙、青龍寺の義明ら、西明寺の円照や志明や談勝をはじめ、長安の文芸界の著名人たち、書の師韓方明も出席したであろう。皆が空海の早い帰国を惜しんだ。
旅立ちの朝、長安城外の?橋のたもとには朱千乗・朱少端・曇清・鄭申甫ら文人たちが集り、空海と別れを惜しんだ。別れの最後に般若が柳の枝を空海の手に渡し空海を抱擁しながら、「できることなら君といっしょに日本に渡りたいものだ」と言ったかと思う。70をすでに越えた般若は老令を悔やみながら、日本に渡りたい願望をいつも空海に明かしていたのである。