蘇州を出た空海一行はなお「京杭大運河」(古運河)をさかのぼり、無錫・常州・潤州・揚州・徐州に停泊しながら汴州に向った。汴州は「京杭大運河」(古運河)の西の端に位置し、ここで黄河と運河が交差していた。ここも古い時代から拓けた古都で恵まれた水運により江南の物資がここに集り華北に運ばれる一大交易都市として発展した。
開封の名で知られるこの都市は、空海が立ち寄った頃は汴州と呼ばれていた。揚州から約550㎞、途中徐州などを経由し2週間ほどかかったであろうか。一行はここで上陸し一切の荷物も陸揚げし、「南船北馬」の喩え通り勅使の用意した馬車や馬で町に入ったと思われる。宿舎はおそらく、立派な迎賓館で汴州の刺史らが出迎えたかもしれない。ここで、しばしの休息をとる。
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汴州の歴史は古く、春秋時代の紀元前8世紀前半、この地を治めた鄭の第三代荘公が居城を築いて啓封とし、のちに開封と改称したことにはじまる。戦国時代には覇者である魏の領するところとなったが、秦に攻められて衰えると梁となり、ここを都として大梁といった。紀元後6世紀の東魏の時代には梁州、つづく北周の頃に汴州となった。
黄河がこの町の北を流れ、隋の頃には大運河が通じて江南から華北に運ぶ食糧や金属・加工品などの鉱工業品など大量の物資が集まり、人々の往来も加わって物流交易都市として大きく発展した。
また汴州は、「京杭大運河」(古運河)の「永済渠」と「通済渠」をつなぐ要衝にあって、町は一層の活況を呈していたにちがいない。唐代末期になると国中から物資が集るようになり、やがて廃都となる運命の長安や古都洛陽に代るほどの隆盛となった。宋代には人口100万の首都(「東京開封府」)となってさらに繁栄した。
この汴州の開封城内、宮城の前に壮大な伽藍を誇る大相国寺があった。京都の大本山相国寺の名はここからとったともいわれている。唐・宋の時代、中国最大の寺院だったという。
大相国寺はその信陵君の住居跡に555年に建国寺として建立された。空海が見たであろう大伽藍は唐代の仏堂建築の粋を集め、一流の芸術家の彫刻や壁画も採用し、大いに輪奐の美を誇った。以後、兵火・落雷・失火・黄河の氾濫などにより盛衰をくり返すが、今なおこの地を代表する古刹として君臨している。
参道を進むと一番奥に大雄宝殿の威容が見えてくる。堂内正面には「三世仏」(阿弥陀・釈迦・弥勒)が祀られている。清代に復興したものだそうだがここの仏像はみな密教的である。その奥の羅漢殿には1本の銀杏の木を58年もかけて彫りつづけ、乾隆32年(1767)に完成したという高さ7mの金色に輝く四面千手観世音菩薩像が安置されている。手の数は1000を越え1048あるという。
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一番奥の蔵経楼にはミャンマーの玉で造られた釈迦の像が祀られている。さらにその蔵経楼の左側には、平成4年に日中友好の標として愛媛県の人たちの募財で建てられた大師堂があり修行大師の銅像が祀られている。
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長安に向って先を急ぐ空海が往路ここに参拝したかどうか、しかし表敬くらいはできたのではないか。おそらく帰路には時間を割いてゆっくり詣でたであろう。この寺には空海が立ち寄った、あるいは滞留したという伝えが残っている。
空海らはこの古都の景観や風情を楽しむ暇もなく、陸路鄭州・洛陽に向わなければならなかった。暦はとうに12月に入っていた。長安までまだ500㎞強も行かねばならない。
当時、華北の陸路を行くのにはいわゆる北馬で、遣唐使の一行には馬車が用意されたにちがいない。しかし運河などの水路とちがい、路面は馬車の往来が多いため凹凸が激しく馬車も窮屈な上に揺れた。黄河流域の地では雨の後ひどいぬかるみとなり、深い水溜りに轍をとられ、転覆や立往生をすることもたびたびある。黄河の洪水が起れば何をかいわんやである。
23人は出発して早々に陸路の困難を強いられたであろう。中国人には雨の日は旅の足を止めるくせがあるのだが、空海らの一行は雨天決行で進んだはずである。馬車の中国人の人夫たちはしぶしぶながらもこれに従ったと思われるが、悪路のゆえに乗っている一行は揺られ揺られて居眠りひとつできなかったと思われる。その状態で500㎞強行くのである。しかし、空海の体力からして、陸路の悪戦苦闘も長安の日々を思えばさして苦ではなかったはずである。