エンサイクロメディア空海 21世紀を生きる<空海する>知恵と方法のネット誌

空海の生涯

トップページ > 空海の生涯 > 入唐留学 > 038「京杭大運河」の水運

038「京杭大運河」の水運

 空海らの一行はやっと長安に向うメインルートに入った。つかの間の休息の後、杭州を発ち「古運河」を約170㎞先の蘇州に向った。
 蘇州は往古から水の都であった。太湖をはじめ多くの湖沼からくる水流に恵まれ、町のなかには至るところに大小の水路が張り巡らされ、いくつもの池庭がつくられていた。後代には、「獅子林」「留園」といった日本(の中華料理店の名前)でもおなじみの名勝庭園が造営され、「東洋のベニス」といわれるようになった。

 紀元前6世紀から5世紀にかけて(春秋時代)この地を治めた呉の6代目の王闔閭がここを都として整備を行った。この地での呉・越二国の勢力争いのなかで「臥薪嘗胆」や「呉越同舟」といった日本でもよく使われる有名な四文字熟語の故事が生まれている。
 6世紀末の南北朝時代、ここを治めた陳の末期、隋に攻められた際ていたらくの王(後主)に民衆が蜂起して町を破壊したため、やむなく郡の役所を他所へ移したという。しかし隋代に煬帝によって「京杭大運河」が築かれるなど、ここが浙江の要衝であることに変わりはなかった。そして7世紀の後半、唐の太宗の時代にふたたび郡の役所をここに戻した。空海らが見たのは水の都として復興途上にある美しい蘇州ではなかったか。

life_038_img-01.jpg
life_038_img-02.jpg
life_038_img-03.jpg

 空海らは町の西方にある寒山寺門前の「楓橋」のところで上陸したと思われる。空海とほぼ同じ時代の唐中期の詩人張継が残した有名な七言絶句「楓橋夜泊」で広く知られた名所である。

月落チ烏啼ヒテ霜天ニ満ツ、江楓漁火愁眠ニ対ス。
姑蘇城外ノ寒山寺、夜半ノ鐘声客船ニ到ル。





 寒山寺は、日本では文人画によく登場したり、森鴎外坪内逍遥良寛らが小説や劇や詩にした「寒山拾得」とともに知られている。「寒山拾得」とは寒山と拾得という二人の離俗の禅風行者のことで、唐代に(禅でいう)風狂や洒脱に生きてこの寒山寺にも住んだことから寒山寺というようになった。南北朝の梁の武帝が即位してまもなく創建されて「妙利普明塔院」といったが、実際に堂塔伽藍の整備が行われたのは8世紀(唐代)になってからで、当時はまだ建設途上にあったのではなかろうか。しかしほどなく武宗の「会昌の廃仏」によって破壊されてしまったものと思われる。
 宋時代には隆盛を誇ったが、元の時代、明の時代、清の時代、たびたび兵火や失火で堂塔を失った。長い歴史のなかで隆替をくり返しが、今もなお蘇州を代表する名勝地として大雄宝殿・鐘楼・宝塔・寒拾殿などを擁し現存している。近年、修行大師の像が建てられている。

 空海は、まっ先にこの寒山寺に表敬したであろう。大使をはじめ随員らもここには同行したかと思う。空海は通訳を交え自分も時折唐語で住持たちと交流したものと思われる。唐の朝廷が認めた国賓なみの使節に対し住持以下は丁重であったし、とくに空海の中国の故事や漢籍や仏教思想の博識ぶりには驚きをかくさず尊敬の念をもって対応したであろう。
 しかし、空海の唐語はここでもわずかにしか通じなかったと思われる。蘇州の言葉は呉方言(呉語)の一つで北部呉語の蘇州方言である。空海が大学寮で習った唐語はおそらく、長安のある陝西で多くの漢人が話す西北官話(中国七大方言で代表的な北方方言(官話方言)の一つ)であったろう。
また空海は、長安の発音である漢音に慣れていた。大学寮での漢籍は漢音で読まれていて、それを徹底して暗記した。官僧としても経典を読誦する際には漢音で読むのを習としていた。とくに入唐留学する僧には漢音の素養が義務づけられていた。漢音の普及は持統・桓武の国策であった。漢音はいわば長安という世界の大都市の基準音(スタンダード)で、呉音(百済音)で漢字を読んでいた遣隋使・遣唐使が長安の都で大変苦労したことに端を発している。

life_038_img-05.jpg
life_038_img-06.jpg
life_038_img-07.jpg

 空海はまた蘇州の西郊外にある霊巌山上の古刹霊巌山寺に詣でたであろう。もともとここは、春秋時代の後期(紀元前5世紀末)、この地を治めた呉の最後の王で「臥薪嘗胆」の故事で有名な夫差とその愛妾西施の離宮であった。西施は、虞美人・王昭君・楊貴妃とともに中国四美人といわれるほどの美女であったらしく、敵対国である越の謀略で送られてきた西施に夫差は心を奪われ骨抜きになってやがて越に滅ぼされる。霊巌山寺のもとはその寵愛の舞台であった。
 紀元後、寒山寺の創建と同じ梁の武帝の頃から次第に伽藍の整備が行われ、唐の時代には禅寺として隆盛を誇った。時代の変遷にともない、住する住持の宗旨により禅から律へ、そしてまた禅へ、近代は浄土宗へと宗が替るが、大雄宝殿ほかの伽藍そのものはやはり禅堂である。

life_038_img-08.jpg
life_038_img-09.jpg
life_038_img-10.jpg

 ここにはなぜか昨今の空海ツアーがはじまるずっと以前から二体の空海像が伝わっている。経蔵殿の2階に、お地蔵さまのような顔立ちの空海が法界定印を結んでいる小さな坐像である。青銅製で背中に「空海像」と刻まれている。作者は不明であるがいずれも明代のものとされ、大戦後蘇州に住む篤信の人から寄進されたという。いったい誰が、どんな動機で、空海の像をつくったのか。明代に空海の事蹟に明るくあるいは空海の密教を尊崇するような中国人がこの地にいたものか、寄進をした篤信者にしても日中の戦争中よく保存しておいたものと感嘆する。
 参道はけっこうな登り坂である。そのためであろう、四国の金比羅さんや福州の鼓山と同様参拝者目当てのカゴが待っている。カゴかつぎには気の毒な気もするが老令の人や身体に問題のある人は利用するといい。

 先を急ぐ旅である。空海ら一行はこの水の都でしばし唐土の美しいたおやかな景観にふれて心なごむ思いをしただろうが、なお「京杭大運河」をさかのぼり無錫常州潤州揚州を経て約750㎞先の汴州をめざさなければならなかった。

Copyright © 2009-2024 MIKKYO 21 FORUM all rights reserved.