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034 既ニ本涯ヲ辞ス

 船団は肥前の海岸を用心ぶかくつたい、平戸島に至った。さらに津に入り、津を出、すこしずつ南西にくだってゆき、五島列島の海域に入った。この群島でもって、日本の国土は尽きるのである。

 列島の最南端に、福江島がある。北方の久賀島と田ノ浦瀬戸をもって接している。船団はこの瀬戸に入り、久賀島の田ノ浦に入った。田ノ浦は、釣針のようにまがった長い岬が、水溜りほどの入江をふかくかこんでいて、風浪をふせいでいる。
 この浦で水と食糧を積み、船体の修理をしつつ、風を待つのである。
 風を待つといっても、順風はよほどでなければとらえられない。なぜなら、夏には風は唐から日本へ吹いている。が、五島から東シナ海航路をとる遣唐使船は、六、七月という真夏をえらぶ。わざわざ逆風の季節をえらぶのである。信じがたいほどのことだが、この当時の日本の遠洋航海術は幼稚という以上に、無知であった。

 やがて、船団は田ノ浦を発した。七月六日のことである。四隻ともどもに発したということは、のちに葛野麻呂の上奏文(『日本後紀』)に出ている。
 久賀島の田ノ浦を出帆したということについては『性霊集』では、
「本涯ヲ辞ス」という表現になっている。かれらは本土の涯を辞した。
(司馬遼太郎『空海の風景』)

 第十六次遣唐使船団の最終寄港地はどこか、の問題である。

 司馬遼太郎は「想像ではなく」久賀島の「田ノ浦」だと言う。しかしその根拠を示していないので真偽のほどがわからない。
 私は、史書の記述と第十六次遣唐使船団の航行日数および遭難海域の推定、さらに当該地の史跡などから、平戸の「田ノ浦」(今の長崎県平戸市大久保町田ノ浦、つまり渡唐する空海像や記念碑が建っている田の浦温泉近くの入江)にちがいないと考える。

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久賀島、田ノ浦付近
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平戸、田ノ浦の入江と高台に立つ空海
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 桓武・平城・嵯峨・淳和の時代を記録した『日本後紀』に、第十六次遣唐大使藤原葛野麻呂が延暦24年(805)6月に対馬に無事帰着し、第1船の海上遭難や唐土上陸の辛苦そして長安への急行の模様を報告上奏した記述があり、そのなかに「肥前国松浦郡田浦従リ発シ」とある。まず、この「肥前国松浦郡田浦」(以下、「肥前田ノ浦」)とはどこか、である。

大使従四位上藤原朝臣葛野麻呂上奏シテ言ス。
臣葛野麻呂等、去年七月六日、肥前国松浦郡田浦従リ発シ、四船海ニ入ル
七日戌ノ剋、第三第四ノ両船、火信応ゼズ。
死生ノ間ニ出入シ、波濤ノ上ヲ掣曳セラルルコト、都テ卅四箇日。
八月十日、福州長渓縣赤岸鎮已南ノ海口ニ到ル。
時ニ杜寧縣令胡延等相迎ヘ、語テ云ク。
常州刺史柳、病ニ縁リテ任ヲ去ル。新除刺史未ダ来タラズ。
国家大平ナルモ。其レ向州之路、山谷嶮隘ニシテ、擔行穏カナラズ。
因テ船ヲ向州ニ廻ス。十月三日、州ニ到ル。
新除観察使兼刺史閻済美処分シ、且ツ奏シ、且ツ廿三人ヲ放テ入京セシム。
十一月三日、臣等発シ都ニ赴上ス。
此ノ州京ヲ去ルコト七千五百廿里。星ニ発シ、星ニ宿ス。晨昏兼行セリ。
十二月廿一日、都ノ長楽駅ノ宿ニ到上ス。

 司馬は不思議なことに、平戸の「田ノ浦」に一言もふれない。彼の根拠はいったい何か。
 もし史書だとすれば、『続日本紀』『肥前風土記』に五島列島の泊への遣唐使船寄港の記述が見えるから久賀島の「田ノ浦」を思ったかもしれない。

遣唐使船、肥前国松浦郡合蚕田浦ニ到リ、
月ヲ積ミ日ヲ余スモ、信風ヲ得ズ。(『続日本紀』)

 これは、宝亀7年(776)夏に、佐伯今毛人を大使とする第十四次遣唐使船が五島列島の「合蚕田浦(あいこだのうら)」に進みながら、今毛人が渡海の危険におびえ「那ノ津」(大宰府)に引き返してしまった時の記述である。
 ここにいう「合蚕田浦」とは、今の中通島(新上五島町)の「青方(港)」のことで、「青方」はその頃、「南路」をとるようになった遣唐使船の寄港地として有力な港であった。「相子田浦(あいこだのうら)」ともいわれている。
 有力ではないが、この「相子田浦」を久賀島の「田ノ浦」とする説がある。「相子」を中通島の「青方」とし、「田浦」を久賀島の「田ノ浦」とするのだという。
 しかし、『肥前国風土記』には、

西ニ船ヲ泊ツル停二処アリ。
一処ノ名ハ相子田ノ停ト云ヒ、二十余リノ船ヲ泊ツベシ。
一処ノ名ハ川原浦ト云ヒ、一十余リノ船ヲ泊ツベシ。

遣唐ノ使ハ此ノ停ヨリ発チ、美弥良久ノ崎ニ到リ、
即チ川原浦ノ西ノ崎是ナリ。此ヨリ発船シテ西ヲ指シテ度ル。

とあり、当時五島列島では「相子田ノ停」(「相子田浦」)、「川原浦」(今の五島市岐宿町白石湾)、「美弥良久(みいらく)」(今の五島市三井楽町柏崎)の3ヵ所が、五島列島における遣唐使船寄港地として知られるのだが、「一処ノ名」という文意からして「相子田浦」を二ヶ所に分けて読むのはおかしいし、「相子田ノ停」に久賀島の「田ノ浦」の名を求めるのは無理である。

 そもそも、第十六次遣唐使船団が久賀島の「田ノ浦」に寄った証拠史料の有無を司馬は明かしていない。私はそのような史料を見聞したことがない。さらに、当時の「肥前国松浦郡」は広く、平戸島も入るし郡の行政の目が届くという意味では平戸の方が中心部に近い。

 史料でなければ司馬は何を根拠にしたのか。全行程の日数計算をして、久賀島の「田ノ浦」を最終寄港地にしたのだろうか。だがすでに触れたように、「那ノ津」では「数旬」(20日~30日)滞留した、と彼は言う。そんなにのんびりでは、五島の津浦に何ヶ所か寄って久賀島の「田ノ浦」に入り、そこを7月6日に発するのは到底不可能である。
 また司馬は「水と食糧を積み、船体を修理し」というのだが、船団は西国一の港「那ノ津」で彼が言うように「数旬」停泊したとすれば、水や食糧や生活物資を充分に積み、船体修理も入念に行っているはずであり、仮にもその必要があるなら「相子田浦」(青方)や「川原浦」や「美弥良久」に入ればいいことで、『肥前国風土記』さえも遣唐使船寄港地として挙げないような(小規模の)、しかも回り道になる久賀島の「田ノ浦」をえらぶ必要はない。

 ここに「肥前田ノ浦」を出港した翌7日の4船遭難の様子を録した『性霊集』の文がある。

賀能等、身ヲ忘レ命ヲ銜ミ、死ヲ冒シテ海ニ入ル。
ニ本涯ヲ辞シ、中途ニ及ブ比ニ、暴雨帆ヲ穿チ、戕風柁ヲ折ル。
高波漢ニ沃ギ、短舟裔々タリ。
凱風朝ニ扇ゲバ、肝ヲ耽羅ノ狼心ニ摧ク。
北気夕ニ発レバ、胆ヲ留求ノ虎性ニ失フ。
猛風ニ頻蹙シテ、葬ヲ鼈口ニ待ツ。
驚汰ニ攅眉シテ、宅ヲ鯨腹ニ占ム。
浪ニ随テ昇沈シ、風ニ任セテ南北ス。
但ダ天水ノ碧色ノミヲ見ル。豈ニ山谷ノ白霧ヲ視ンヤ。
波上ニ掣々タルコト、二月有余
水尽キ人疲レ、海長ク陸遠シ。
虚ヲ飛ブニ翼ヲ脱シ、水ヲ泳グニ鰭ヲ殺ス、何ゾ喩ト爲スニ足ラン哉。

 「耽羅」とは済州島のことで、西南の風に煽られそこに流されると蛮民の掠奪に遭う危険性があり、「留求」とは琉球(沖縄諸島あるいは台湾)のことで、北東の風に流されそこに漂着すると人喰い族に殺される危険が待っている。そのことを肝を冷やす思いで恐れていたというのである。
 この言いまわしは、当時の東シナ海での海難の恐怖を象徴的に言ったものであろうが、決して誇張や比喩ではなく、よく人の口に上っていた凡例を挙げたものとも考えられる。そうすると、夏の東シナ海では西南の風(逆風)にさえぎられ、南下するどころか西に流されて済州島に漂着することもしばしばあったということが読みとれる。

 とすると、空海らの船団は7月6日平戸の「田ノ浦」を発って生月島の北端を巻き、順風をとらえて東シナ海を西に進み生月島の西方沖で潮に乗って南下した。ところが翌朝逆風に遭い宇久島の西方海域で強風と逆波にさえぎられて終日南下もままならず、強風の不穏な気配にしばしば帆をあげ西南の風を背に五島列島のどこかに避難しようとしたがむしろ済州島の方向に押し流され、夜8時~9時頃五島列島を遠く離れた西の海域で遭難したとの推定が可能である。その海域から福州近くの赤岸鎭に漂着する(8月10日)まで34日、東シナ海の潮流になすすべもなく浮かんでいた日数距離としてもまあまあではなかろうか。
 「肥前田ノ浦」を久賀島の「田ノ浦」とすると、遭難の地点がずっと南に下り、漂流日数からして難しくなる。久賀島の「田ノ浦」から発ったとして1日で約30㎞、出発した7月6日の夜は福江島の「川原浦」か「三井楽」かその沖合。翌7日は朝から逆風で南下がはかどらず、やむなく帆をおろし、櫓をやめ潮の流れにまかせて嵯峨ノ島の西南沖を流され、夜半になって暴風雨となった時にはもう嵯峨ノ島ははるか北東の彼方だったであろう。仮にそう推定すると、遭難の海域はずっと南方で、距離にして宇久島の西方海域からは約100㎞南、仮に1日10㎞漂流するとして10日、15㎞として1週間の誤差になる。

 私は、第十六次遣唐使船団は「肥前国松浦郡田浦」すなわち平戸の「田ノ浦」を出て、当時遣唐使船の定番航路だった「南路」をとり五島列島の「相子田浦」か「川原浦」か「美弥良久」をめざしたのだが、そこに到る前に福江島のかなり北西の宇久島西方海域で遭難したと推定する。その方が全行程の日数計算上でも妥当だと思われる。
 従って、空海らを乗せた第十六次遣唐使船団は五島列島のどこの港にも寄港をしていない、「肥前田ノ浦」とはやはり平戸の「田ノ浦」以外にない、と考えるのが妥当であろう。

 平戸の「田ノ浦」には古くから空海の「腰かけ石」や大師堂のほかに、遣唐使船をつないだという「舫の木」や水をくんだ「唐井戸」があり、九州の真言宗諸寺院の力で渡唐の空海像や記念碑や礼拝堂も建てられ、平成16年5月26日には九州の真言宗諸大徳のほか、宗派を超えた地元の人々の手により空海渡唐1200年の記念大法要が行われた。

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空海腰掛け石
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唐井戸
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遣唐使船をつないだ舫の木


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 ところが、久賀島の「田ノ浦」にはそれとわかる史跡や記念碑等もなく、空海の事蹟といえば八十八ヵ所参りの風習が残っているくらいである。もしこの島の人々や九州の真言寺院の方々が「ここが第十六次遣唐使船の最終寄港地である」ことを史実にもとづいて守り伝えていたとしたら、とっくに空海の渡唐解纜の記念碑が建っているはずである。この現実を、司馬はどう受けとめ、いかなる根拠で「想像ではなく」、久賀島の「田ノ浦」を「肥前国松浦郡田浦」だとしたのであろうか。

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 空海らの第十六次遣唐使船最終寄港地にはまた別な問題がある。
 三井楽町柏崎の海辺に「辞本涯」(「本涯を辞す」)と刻まれた石碑が建っている。この刻字を揮毫された静慈圓先生(高野山大学)は、この浜が第十六次遣唐使船団の最終寄港地だとしておられる。しかし先生にして珍しくその根拠を明らかにされていない。私は、延暦23年(804)7月7日に、三井楽町柏崎を空海らの第十六次遣唐使船が出港したことを伝える確かな資料を知らない。

 だいたい、当時の遣唐使船(和船)の4船伴走の船足、梅雨時の天候や海上の見通しの悪さ、夏の西南の風(逆風)、風待ち潮待ちの津浦でのしばしばの停泊、「那ノ津」での滞留日数を考えると、「難波ノ津」を5月12日に出て、7月6日のうちに久賀島の「田ノ浦」から福江島の南端「美弥良久」まで達するのはまず不可能である。
 まさかだが、静先生は、『肥前国風土記』の、

遣唐ノ使ハ此ノ停ヨリ発チ、美弥良久ノ崎ニ到リ、
即チ川原浦ノ西ノ崎是ナリ。此ヨリ発船シテ西ヲ指シテ度ル。

という記述を、第十六次遣唐使船団にも重ね合わせたのであろうか。

 いずれにしても、『日本後紀』に「肥前国松浦郡田浦従リ発シ、四船海ニ入ル」とある以上、これを無視して第十六次遣唐使船最終寄港地を「美弥良久」(三井楽)とするには無理がある。
 それ故私は、「辞本涯」の地は当然ながら、延暦23年7月6日に船団が出港をした「肥前国松浦郡田浦」にほかならず、それはすなわち平戸の「田ノ浦」だと考える。再度言うが、第十六次遣唐使船団は「美弥良久」(三井楽)に寄る前に五島列島西方の東シナ海海域で遭難し潮の流れに漂うことになったに相違ない。空海らの第十六次遣唐使船団は「美弥良久」(三井楽)にはきていないのである。

 余談ながら、司馬がいう(東シナ海遭難の)次の部分は史家の研究を見ていない。
僚船がどうなったのかわからない。葛野麻呂の上奏文ではこの間のことを、

第三、第四両船、火信応ぜず

と書いている。
 火信とは、松明もしくは火縄をふることによって、たがいに所在をたしかめあうことであった。

 第三船はこの時期に海没してしまったらしい。第四船にいたっては海没の証拠すらなく、ついに行方が知れなくなってしまっている。
(司馬遼太郎『空海の風景』)

 史家によれば、判官三棟朝臣今嗣が率いる第3船と判官高階真人遠成の指揮する第4船は、ともに遭難海域から辛くも那ノ津(大宰府)に引き返し、船体を修理して翌延暦24年7月4日肥前国松浦郡庇良島(現在の平戸島、おそらく平戸の「田ノ浦」)から出航し遠値賀島(福江島)に向ったが、第3船はまもなく南風の逆風によって孤島に漂着し、判官三棟は上陸をしたものの船は水夫らとともに海上に流され(『日本後紀』)、ついに行方知らずとなってしまったと史暦にあるといい、第4船は無事に東シナ海を渡り空海らを乗せて帰っている。
 ちなみに私は、空海らを乗せた第1船はこの第3船とほぼ同じケースの遭難であったと推定している。第3船は同じ遭難を同じ航路で2度くり返したことになる。

 蛇足であるが、遣唐使船とは別に、五島列島を経由して唐土との往復を短時日で成功させた僧の例がある。日本と唐との間を往復した僧の渡海船は、かならずしも遣唐使船ばかりではなかったのである。
 空海の直弟子實慧の門下で、後に平安京定額寺となった山科の安祥寺の開基である真言僧の恵運は、承和9年(842)8月(秋)に、肥前国松浦郡遠値賀(とわちか)島(福江島)那留浦を発ち、北東の風に乗り6日で温州楽城県付近に到着し滞在すること5年、承和14年(847)6月(夏) 明州から西南の風を利用してたった3日で遠値賀島(福江島)に帰ったという。
 空海の弟子真如法親王とともに渡唐した宗叡(後に東大寺別当・東寺長者となる真言僧)は、貞観4年(862)9月(秋)に遠値賀島(福江島)から北東の風に乗って渡海し、4日後に明州付近に着いた。そして貞観8年(866)6月(夏)、福州から西南の風に乗り5日で遠値賀島(福江島)に戻ったという。

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