少し想像をたくましくして航行経過をさぐってみると、「難波ノ津」から「那ノ津」までが約600㎞。遣唐使船の1日の航行距離(だいたい20~30㎞だったという)を平均30㎞とすれば、実航20日。風待ち潮待ちの瀬戸内の津浦を12・3ヵ所として停泊日数が約20日、これでも40日はかかる。「那ノ津」に到着したのは、おそらく(ここでの停泊日数を約10日とし、7月6日には「肥前田ノ浦」を発っていることからして)6月20日頃ではなかったか。
「那ノ津」はすでに、5世紀に朝鮮半島との間を往来する玄関として拓かれていた。この頃には外交交易や軍事のことを管轄する西日本最大の地方行政府の大宰府もあって、日本を代表する大規模な港湾都市になっていた。
古代那ノ津絵図、鴻臚館と大宰府との往来道がみえる |
大宰府都督府復元 |
一行はここで船を下り大宰府鴻臚館に入った。ここでしばし長い船旅の身心を休める。その間、船も船体を休め点検と補修を受けて東シナ海を渡るに足る準備をする。また荷役の人夫は船中の廃品を捨て、かわりに唐土までの食糧や塩をはじめ、「那ノ津」のような大きな港でしか求められない船の補修部品や生活物資を調達して積み込むのである。ここでの停泊は10日程度であったろう。
司馬遼太郎は「大宰府では、数旬、滞留した」と言うが、「数旬」とは1旬が10日程度だから20日か30日のつもりであったろうか。当時の時間の感覚はそのようにゆっくりとしたものだったであろうが、「那ノ津」でそんなにゆっくりしていたのでは、司馬が言うように五島列島久賀島の「田ノ浦」を7月6日に出ることは不可能ではなかったか。
この「那ノ津」には、前年第十六次遣唐使船が瀬戸内海で暴風雨に遭い船の一部が傷んで再度出直しとなったため、やむなく一年待たされていた最澄がいた。
司馬遼太郎は、この「那ノ津」での最澄と空海の様子をいかにも敵対的関係のように書いているが、当時も今も僧侶同士の礼儀礼節は表立ってはきちんとしているもので、空海は最澄を蔑視するどころか進んで挨拶をしたはずである。一方の最澄は、至極生まじめな仁者であったからこれに応じて丁重に空海の挨拶を受け、入唐の目的などについてたずね、自らも天台山で天台教学を受学する旨のことを言ったにちがいない。空海は、桓武の信認も厚くすでに宮中の内供奉十禅師(宮中の内道場に供奉する天皇の護持僧十人)に列してはるか上﨟の最澄に対し、礼儀正しい態度で華厳教理や『大日経』あるいは真言・陀羅尼のことを言ったと思われる。
ただその時の最澄はたぶんそれを聞いてもピンとこなかったであろう。官僧になったばかりで若輩の空海が口にした華厳や『大日経』や梵語という言葉に少々の青臭さとまぶしさを感じながらも「それは奇特なことで、せいぜい20年間身体に気をつけてがんばってきてくだされ」と慇懃に励ましたと思われる。
しかし最澄には何気ない重苦しさが残ったであろう。それは唐での短期留学中ずっと消えなかったのではないか。重苦しさとは、仏典の学修においては自負心をもつ最澄でさえも未詳の『大日経』や真言・陀羅尼(梵字・悉曇)のことを下﨟の空海が簡単に口にした、不気味さであった。だから最澄は、天台山の帰途、明州(寧波)近くの越州(紹興)で龍興寺の順暁に出会うと、目的の外であった密教を受法する気になったのではないだろうか。それで、空海から受けた重苦しさを払拭できたかに思った。しかし帰国後その不気味さが現実となった。自分が先に日本にもち込んだ(越州の)密教が空海の正統密教によって否定されるという窮地に立つのである。
「那ノ津」での最澄には、密教とはいかなるものかさしたる関心もなかったであろう。すでに桓武の認めるところとなり宮中の内供奉十禅師にも列し、南都とはちがった新しい護国仏教の担い手として『法華経』を重んじる中国天台の修学に関心が集まっていたはずだからだ。
『法華経』は、『金光明最勝王経』?『仁王経』とともに日本にもたらされた当初から護国経典として重んじられていたが、朝廷および南都の国家仏教は華厳経をその上に置き、華厳の仏国土思想にもとづく華厳国家をめざしていた。これに対し最澄は、平安京の新しい護国仏教の経証として『法華経』をえらんだのである。
当時、『法華経』修学の寺は日本にはとくになかった。最澄は迷うことなく天台山に上り、中国天台宗の大成者智顗の「五時八教」の教判とともに「天台三大部」(『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』)や、「天台五小部」(『観音玄義』『観音義疏』『金光明玄義』『金光明文句』『観経疏』)を学び、さらには止観や大乗菩薩戒の伝授を受け、帰国後はそれらを比叡山に根づかせるとともに新しい護国仏教の要とする考えであったろう。事実最澄は、それを短期間で修め留学の目的をはたしたのであった。
最澄と空海はお互いを認めながら、しかしとくに親しくなるわけでもなく、「那ノ津」の近くの鴻臚館で船出を待ったと思われる。
鴻臚館は古代の迎賓館で、外国から来た外交使節や日本から海外に出る官人らを接待したり宿泊させるところであった。大宰府鴻臚館はすでに7世紀の後半に筑紫館(つくしのむろつみ)といわれた時代から「那ノ津」の近くにあった。
楽浪海中、倭人アリ、分レテ百余国トス。歳事ヲ以テ来リ、献見スト云フ。
とある。空海はそれらにも関心を寄せたであろう。故事にはめっぽう強かった。
「那ノ津」の周辺には外交交易の港にふさわしく古くから大規模な倉庫群もあった。7世紀のはじめには朝鮮半島の情勢にともない関係の深かった任那や百済を軍事・外交の両面で支援するため、その業務を総合的に担う役所として那津官家が置かれた。これが大宰府(政庁)の前身である。
ところが日本と百済の連合軍は「白村江の戦」で唐と新羅の軍に敗れ、那津官家はその防備のため「那ノ津」から撤退して東南の山里(今の太宰府)へ移り、太宰府を囲むかたちで大野城・基肄城・水城などが築かれることになった。
しばしの上陸もやがて期限がきて、第十六次遣唐使船団は再び海に漕ぎ出した。「那ノ津」を出た船団は、左舷に能古島、右舷に志賀島を見ながら再び玄界灘に浮かんだ。志賀島は、今のように「海の中道」といわれる砂嘴で陸地とつながっていたかどうかわからない。この島には、後漢の光武帝が建武中元2年(57)に日本からはじめて中国に赴いたという「奴国」(筑紫の地にあった小国家)の朝貢使に与えた「漢委奴國王(「かんいどこくおう」、または「委」を「倭」と読んで「かんのわのなのこくおう」)」の金印が眠っていた。それが発見されたのは、ずっと歴史がくだった江戸時代の天明4年(1784)のことであるが、偽造されたものであるという説もある。
ただ、5世紀の『後漢書』の「東夷伝」には、
建武中元二年、倭ノ奴国奉貢朝賀ス。使人自ラ大夫ト称ス。
倭国ノ極南界ナリ。光武賜フニ印綬ヲ以テス
とあり、後漢の光武帝が日本の奴国の国王に印綬を下賜し、冊封したことが書き残されている。
玄界灘に出た船団は西に向った。次の停泊地は糸島半島か唐津湾の津浦であっただろうか。東松浦半島の呼子か名護屋にも寄ったであろう。相変わらず沖合には出ず、伊万里湾の外洋を通り平戸島の「田ノ浦」をめざしたはずである。すでに暦は7月に替っていた。平戸「田ノ浦」までは約100㎞である。順風かつ順潮で約3日の行程である。
遣唐使船の行程は、まず「難波ノ津」から瀬戸内海に漕ぎ出し、筑紫の「那ノ津」か薩摩の「坊ノ津」をめざす。大半は大宰府のある「那ノ津」経由だが七回ほど「坊ノ津」経由の記録がある。唐土までの航路は、時代によって変更された。
舒明天皇2年(630)~斉明天皇元年(665)は、「那ノ津」から出航し壱岐島・対馬を経て朝鮮半島の西海岸沿いを進み、遼東半島の南海岸から山東半島の登州をめざす「北路」が従前通りにえらばれた。この航路は比較的安全であった。
次の大宝2年(702)~天平勝宝4年(752)は、「白村江の戦」で唐・新羅の軍に敗れて朝鮮半島との関係が悪化したため安全な「北路」が使えず、薩摩の「坊ノ津」から奄美群島や琉球諸島を経て東シナ海を横断し揚子江の河口をめざす「南海路(南島路)」がえらばれた。この航路は難路で往復とも一度しか行われず、実際は次の「南路」が使われていたという。
宝亀4年(774)~承和5年(838)は、「那ノ津」または「坊ノ津」から出て日本国内の島々を経て東シナ海を横断し明州をめざす「南路」をとった。この航路も、東シナ海でたびたび海難に遭遇した。それでも順風の時は6日前後で渡海できるため多くこの「南路」がえらばれた。第十六次遣唐使船もこの航路であった。