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027「大輪田泊」から「牛窓」そして「室ノ津」

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古代大輪田泊の石椋(神戸市兵庫区)
 「難波ノ津」を出た船団は、先ず摂播五泊の一つ「大輪田泊」(兵庫津、現神戸)をめざし、そこで1泊したと思われる。出航初日の航行距離や「よつのふね」が入る港湾の規模からして、ここ以外に考えられない。

 空海の時代、瀬戸内の海上にはすでに一定の要路があった。その要路の先には、天然の地形を活かし風を待ち潮を待ち、あるいは水・食糧の補給をする船泊りが拓けていた。それを「泊」と言った。
 数次にわたった遣隋・遣唐使の船団も瀬戸内の泊に停泊をくり返し、海上要路をたどりながら「那ノ津」(大宰府)に向った。第十六次遣唐使船も同様であっただろう。「難波ノ津」から「那ノ津」まで約600㎞、この季節は夏の西南の風で風向きは逆風であった。順調に行って1ヵ月くらいの航程である。

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天平8年(736)の遣新羅使節の航路

 当時、摂津・播磨の2国に「摂播五泊」といわれる泊が拓けていた。奈良時代に行基菩薩が定めたという「河尻(尼崎)」「大輪田(兵庫津、神戸)」「魚住(明石)」「韓(的形)」「室ノ津(室津)」である。「難波ノ津」を出た遣唐使船団は、当初の2泊を先ずはこの「摂播五泊」のどれかに停泊することになっていたと思われる。
 1~2泊して「大輪田泊」を出た「よつのふね」は、次に播磨の「室ノ津」に入ったであろう。
 「室ノ津」も、『播磨国風土記』に「此の泊、風を防ぐこと室の如し。故に因りて名を為す」とあるように、三方を山に囲まれ古くから天然の良港として知られていた。それ以後海の駅として栄え、多くの人々と文化や物資がここを通り過ぎていった。
 後に、平家全盛の時代、高倉天皇に従って厳島神社に参拝する平清盛がここに寄港し、港を見下ろす高台にある賀茂神社に海路の無事を祈った。讃岐に流される法然は往復2度立ち寄り、戦の途中の足利尊氏は港にほど近い見性寺で作戦を立て、孫の義満は厳島神社参詣の途中ここに寄港した。
 江戸時代になると、慶長12年(1607)に最初の朝鮮通信使がここに上陸し、播磨藩はこれを迎えてにぎにぎしく接待をするなど、充実した港町の機能設備により日本有数の港町として発展する。
 参勤交代が制度化されると、九州・四国・中国の西国諸大名は海路ここに上陸し陸路江戸へ向った。単なる寄港地ではなく乗船あるいは上陸地点となった「室ノ津」は大名行列で大変なにぎやかさとなった。小さな藩で200人、大きな藩になると400人を数えたという。
 一方また、海産物を満載した北前船も多く出入りして活気を町にもたらし、諸大名が宿泊する本陣をはじめ、脇本陣を兼ねた豪商の邸、宿屋・揚げ屋・置屋などが軒をつらね、室津千軒といわれるにぎわいであった。
 また「室ノ津」は、遊女発祥の土地としても有名であり、井原西鶴近松門左衛門の作品にも登場する。谷崎潤一郎はここで『乱菊物語』を書き、竹久夢二は「室津」を描いた。

 姫路から国道250号を西へ約20㎞、今はたつの市に合併した旧御津町に入り、「世界の梅公園」で有名な綾部山の梅林を過ぎ、七曲りといわれる海岸沿いの道の途中に「室ノ津」(今は室津)がある。
 室津の町の入口は道路標識を見落とすとうっかり通り過ぎてしまうくらいのところだ。乗用車がやっと離合できる狭い道をおりていくと「室津海駅館(旧豪商「嶋屋」)」や「室津民俗資料館(旧豪商「魚屋」)」、見性寺や賀茂神社のある町中に出る。港の出入り口の公園には「湊口御番所跡」がある。

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 500人からの乗員が長い船旅をつづける遣唐使船には、水・食糧のほか塩や燃料や生活物資を補給する必要がある。それが可能なのは瀬戸内の海べりに古くから拓けていた風待ち潮待ちの泊のほかにはない。それが船の航行からしてほどよい距離間隔で存在していた。「よつのふね」はそこに1泊~3泊し風と潮をえてまた海路に戻るのである。
 当時の航法は、沿岸の陸地の地形を見ることで通過地点を確かめ、天候に従って津浦の泊で風を待ち潮を待ち、風と潮に乗って進むのである。この航法を「地乗り」といい近世の初めまでつづいた。
 船はまめに入出港できる沿岸沿いを最短距離で航行し沖合には出なかった。当時、遣唐使船のような大きな外洋船であっても、船底はタライのように平らな船体だったこともあり、潮や風をたよりに波間をただようような航行であったから陸地を離れずに航行する。港も、大方は浅瀬で今のような桟橋などはなく、おそらく干潮の時をえらんで人や荷を乗せ降ろししたであろう。

 第十六次遣唐使の「よつのふね」は、備前に入り「牛窓」に停泊したにちがいない。
「牛窓」は唐子の瀬戸ともいわれ、古くから備前を代表する瀬戸内海の要衝として栄えた。眼前に前島・青島・黄島・黒島を擁し、その奥に小豆島を配する天然の良港である。

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 伝えによれば、神功皇后が三韓征伐の道中、この地で塵輪鬼(頭が八つの大牛怪物)に襲われてこれを弓矢で射殺したのだが、新羅遠征の帰途ここでまた牛鬼の姿の塵輪鬼に襲われた。するとそこに航海の神・住吉大神が老翁の姿となってあらわれ、牛鬼の角をとって投げ倒した。この伝説がもととなってここを「牛転(うしまろび)」と呼ぶようになり、それが「牛窓(うしまど)」になったという。瀬戸内の船泊りには神功皇后の伝説が多い。摂津の「大輪田」にはじまり、周防の「麻里布(岩国)」や「熊毛浦(平生町、可良浦)」などに至るまで数々であるが、「牛窓」もそうである。
 ここには柿本人麻呂万葉歌が残っている。唐子の瀬戸の潮騒は潮の早い難所の意味でもあり、古くから聞こえていたのであろう。

牛窓の 波の潮騒 島響(とよ)み 寄さえし君は 逢はずかもあらむ

 江戸時代には下津井とともに西国の通商海運で栄え、その面影が今の「しおまち唐琴通り」のたたずまいに残っている。朝鮮通信使遺跡の本蓮寺や空海が再興したという弘法寺、さらに金剛頂寺(西寺)・牛窓神社、牛窓警察署の古い建物を利用した「海遊文化館」など見るものも多い。
 ここには塩田や小型木造船の造船も古くから発達していた。遣唐使船団はここで塩を補給し船体の保守点検を行ったものと思われる。

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