エンサイクロメディア空海 21世紀を生きる<空海する>知恵と方法のネット誌

空海の生涯

トップページ > 空海の生涯 > 入唐留学 > 026 第十六次遣唐使船「よつのふね」に乗る

026 第十六次遣唐使船「よつのふね」に乗る

 空海は第十六次遣唐使船に乗る乗員とともに摂津の住吉大社に集結した。阿刀大足勤操やあるいは護命やゆかりの人たちも見送りにきていたであろうか。故郷の佐伯家からも誰かきたであろう。

 東大寺で「具足戒」を受けてからの1ヶ月はまことにあわただしかった。在唐20年の学費・滞在費などを、実家の佐伯家や母方の阿刀家をはじめとする親族、そして藤原氏や中央佐伯氏、さらには大安寺・東大寺・興福寺元興寺僧綱所などから急いで助成を仰がなければならなかった。
 空海のような私費留学生の場合、朝廷から餞別として絁(あしぎぬ、紬に似た絹の織物)40疋(=80反(1反は幅約1尺(30㎝)×長さ約3丈(9m)×80)、綿100屯(1屯=150gの100倍、15㎏)、布が80端(80反)下賜されるのであるが、それらは彼の地で外交儀礼的交換の品として使うためのもので、長期間滞留する留学生はそれだけではとても足りず、自分の努力で相当な金品を調達しなければならなかった。ともかくも、大量の荷物とともに大金をたずさえて空海は住吉大社に上った。

 遣唐大使以下、唐に使いする朝廷官吏や留学生のほか遣唐使船を動かす主だった乗組員は、「難波ノ津」を出る前にかならずこの住吉大社に詣で、航海の神・海の軍神である「住吉三神」(底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと))に渡海の無事を祈ることになっていた。

life_026_img-01.jpg
life_026_img-02.jpg

 その海上安全の祭祀を司る神職(津守氏)は遣唐神主として遣唐使船に乗船し、船の舳先に立てた「三神」の護符の前で航海中ずっと神事を行うのである。「津守」とは「津を守る(神職)」の意である。「住吉津(住之江津)」も古くから拓けた外交・交易の港で、大陸や半島の文物がこの港から上陸していた。仏教文化もその一つであった。一行は「住吉津」の入江から小船に分乗し「難波ノ津」に向かった。

 延暦23年(804)5月12日、第十六次遣唐使一行を乗せた四船(「よつのふね」)は「難波ノ津」を出航した。一船当り100名から150名、総勢500名からの大デリゲーションであった。

life_026_img-03.jpg
life_026_img-04.jpg

 乗員は、先ず大使。天皇から節刀を賜っている全権大使であった。それ故、天皇の名代が務まる朝廷高官がこの任に任ぜられる。第1船に乗り、500人からなる大使節団の団長をつとめる。この大役を藤原葛野麻呂が担った。
 この大使を補佐するのが副使(ふす)で、1人の場合も複数の場合もある。この時は石川道益1人であった。大使より位階が下の朝廷官吏がこの任に任ぜられる。副使は第2船に乗る。
 次に判官である。副使に次ぐ立場の行政官で第3船・第4船の船長でもある。その下に録事がつく。今でいう秘書である。さらに准判官と准録事が複数いる。
 さらに、知乗船事が数人いる。水手(船員)や積荷の実際を管理監督する。
 また、史生(書記)と訳語(通訳)がいる。訳語(通訳)は唐語の通訳で、とくに新羅語も話せる新羅訳語を乗せることも多くあった。
 このほかに、医師・主神(神主)・呪師(占い師)・音声長(雅楽の指導者)・音声生(楽師)・画師・陰陽師(天文星宿)・留学生・請益生・留学僧・請益僧・沙弥(留学僧・請益僧の従者)・傔従(従者)・雑使・射手(警備員)・船師(船長)・准船師・水手長(船員の長)・水手・玉生(ガラス工)・鍛生(鍛冶鍛金工)・鋳生(鋳物師)・細工生(木工職人)・船匠(船大工)・柁師(操舵長)・挟抄(柁とり)らである。
 唐土に着くとこれらの随行員のなかから大使以下朝貢の随行員・長期滞在の留学生・留学僧・訳語など1船当り20人程度がえらばれ大唐の都長安に赴く。ただし、彼らを選定する権限は唐側(上陸した港を管轄する地方の長官)にあり朝廷がそれを追認する。長安に行く者の旅費滞在費などの費用は唐側が負担するからである。船に残る者は帰りの準備をするのである。

 日本第2の大都市となった今の大阪に、往古の「難波ノ津」の形跡をさがし出すのは容易なことではない。歴史をたどっても頭に浮かぶのは太閤秀吉の時代までであり、大坂城の威容がそれを一層印象づける。かつてこの地に「難波宮」があり大陸や朝鮮半島との間で人物や文物の往来がさかんにあって繁栄したことも、それを知る人は史家くらいであろう。

life_026_img-05.jpg
life_026_img-06.jpg

 大坂城近くの広大な「難波宮跡緑地公園」には憩う市民の姿もなく、往時を偲びにくる歴史愛好家もいない代りにホームレスがそちこちに横になり、復元された大極殿の基壇だけがすぐ近くを通る法円坂付近の車の喧騒と離れてひっそりとそこにあるだけなのである。かつてわが国の国家的プロジェクトであった遣隋・遣唐使船が発着し、大陸や朝鮮半島との交流の玄関であった「難波ノ津」はいったいこの大阪のどの辺にあたるのか、空海の渡唐を考える時どうしても知っておきたい故地である。

 「難波ノ津」の推定地は史家によってさまざまだが、以下の三つにしぼられると思う。
life_026_img-07.jpg
 第1は、上町台地北端の大川べり。天満橋と天神橋の間の「天満橋」駅から北浜東にかけての一帯である。この地は淀川水系の川べりで「難波宮」にも近く、法円坂の倉庫群などの関係からして最有力とみられる。
 第2は、高麗橋付近。第3は、三津寺付近である。とくに三津寺付近(今の難波の少し西北)の説は古くからあり有力ではあるが、ここでは採らない。
以下に参考になる論考を紹介する。

 現在大阪市内を流れる大川は、1910年(明治43年)に新淀川が開削されるまでは淀川の本流だった。大川にかかる天満橋は、商都大阪の各河川を循環する巡航船の起点として、明治時代には多くの人々で賑わったという。この大川は自然にできた河川ではない。古代に人工的に開削された水路で、当時は「難波の堀江」と呼ばれていた。
 4000年ほど前は、大阪平野の北東部はまだ河内湾と呼ばれる海だった。そして淀川や旧大和川水系からの流水はこの河内湾に流れ込んでいた。その頃の上町台地は大阪湾と河内湾の間に突き出た半島に過ぎなかった。
 淀川や旧大和川水系から長い間に大量の土砂が流れ込んだ結果、河内湾の周りに三角州ができ、また上町台地の北側に砂州が発達していった。そして1800年から1600年前ほど前には、北へ延びた砂州によって大阪湾と河内湾が遮られてしまった。そのため河内湾の淡水化が進み、河内湾は河内湖に変わった。河内湖に流れ込んだ水は現在の神崎川あたりを西に流れて大阪湾に注いでいた。

life_026_img-08.jpg
大阪の古図/■の左上に難波ノ津、
上に難波宮・難波堀江が、中央部左下に住吉津が見える
(日下雅義『古代景観の復元』中央公論社)

life_026_img-09.jpg
life_026_img-10.jpg

 5世紀は「倭の五王」の時代と言われるように、この頃には日本列島を代表する政治勢力が河内・和泉地方に生まれている。この政治勢力にとって、難波地域は西国や朝鮮半島、中国への交通の要地として特別な意味を持つ地域だった。そのため四つの港津が開かれた。現在の堺市大小路付近に位置していたと推定される榎津(えなつ)、住吉神社の西方に位置していたと考えられる住吉津、大阪市中央区三津寺付近にあったとされる難波津、そして現在の堂島川の玉江橋の北に位置していたと思われる江口である。このうち、江口は港津として機能したのではなく、難波津に来航する外交使節を威儀を整えて迎える場であったらしい。
 6世紀、大和朝廷の政治勢力は現在の奈良県桜井市がある磐余地方に移る。しかし難波は引き続き外交・西国経営の要地であった。特に難波津は、大和朝廷の表玄関としてその重要性を増していた。難波津まで運ばれてきた西国からの物資や半島諸国からの献上品を大和に移送するには、陸路を運ぶより川船で河口湖から大和川をさかのぼって運ぶ方が便利である。さらに、台地東北部の集落は、水はけが悪いため大雨が降るたびに洪水に見舞われていた。しかし水路を築いて流水を大阪湾に導くことで、これらの集落を水害から守ることができる。こうした一石二鳥の効果をねらって、上町台地の北側にあたる天満砂堆を東西に切り開いて水路が造られることになった。これが「難波の堀江」であり、現在の大川の最初の姿である。

 大阪市内の上町筋を大川べりから南に歩くと、土地が緩やかに隆起して台地になっているのが分かる。台地の北端に近い最高所は海抜23~24mの高さに位置し現在は大阪城公園の南に隣接する「難波宮跡」として整備されている。難波宮跡の地下には、孝徳天皇時代の前期難波宮(=難波長柄豊碕宮)や聖武天皇時代の後期難波宮の遺構が眠っている。
 聖徳太子の時代にはそれぞれの国の使節が留住する館舎として、難波館に代って百済館、高句麗館、新羅館が建てられていたようである。推古天皇の16年(608)4月に隋使の裴世清 (はいせいせい)が小野妹子に従って来朝した時には、隋使のための新館をわざわざ高句麗館の上に造らせている。これらの外交館舎とは別に、外交使節を集めて一定の儀式を行なう公的な場として難波大郡(なにわのおおごおり)が建てられていた。
                    (大阪都市協会HP「歴史散策」より)

Copyright © 2009-2024 MIKKYO 21 FORUM all rights reserved.