第1節 文章上の厄介な問題
得る所なきを以っての故に、菩提サッタは般若波羅蜜多に依るが故に、心にケイ礙なし。ケイ礙なきが故に、恐怖あることなし。一切の顛倒夢想を遠離して涅槃を究竟したまえり。
この一節は、実はサンスクリット原典と漢訳とが一致しません。
まず、「得る所なきを以っての故に(以無所得故)」の一句は、わが国の伝統的な訓読の仕方では、この段の一部とせず、前段の文章に含ませて、「...智もなく、得もなし。得る所なきを以ての故に」と読ませています。
しかし、原典には、この語句の前に漢訳では省かれている「それ故に」という接続詞が置かれていますから、やはり本節の一部と考えるべきでしょう。
ほとんどの解説者は、「得る所なき(無所得)」について、どうやら漢字にとらわれて「損得の打算を越えた心境」といった珍解釈をしていますが、そうではなく、これは前回説明しました「得(とく)」に対する「非得(ひとく)」のことです。「四階のフロアにおいては諸法が結合することはない」、言いかえれば「まったくの開放次元である」という意味です。
最も問題の箇所は、次の「菩提サッタは般若波羅蜜多に依るが故に」の一文です。
漢文を訓読すれば、こうとしか読めないのですが、原典によれば、この文は「菩提サッタの般若波羅蜜多に依るが故に」としなくてはなりません。
漢訳では、「菩提サッタ」が主語になっています。しかし、原典では、「菩提サッタ」に対応する語は 所有格で、しかも複数形なのに、この文全体の述語(動詞)は単数形ですから、「菩提サッタ」は絶対に主語になりえないのです。信じがたいことですが、この箇所の漢訳は誤訳といわねばなりません。
では主語は何かといいますと、原典には明記されてはいません。一体誰が「菩提サッタの般若波羅蜜多に依るが故に、心にケイ礙なし。ケイ礙なきが故に、恐怖あることなし。一切の顛倒夢想を遠離して、涅槃を究竟し」ているというのでしょう。
漢訳のように無理に主語を「菩提サッタは」としても意味は通りますが、ここでは原典を尊重して「菩提サッタの般若波羅蜜多」とは何かという問題から説明していくことにします。
第2節 菩薩の般若波羅蜜多
まず、「菩提サッタ」ですが、これの略語が「菩薩」です。すでに「観自在菩薩」の名でお馴染みですね。その原意は「悟り(菩提)を求むる人」で、要するに「修行者」のことです。ただし、どんな修行者も菩薩と呼ばれるのではなく、大乗仏教の修行者に限られます。
元来は、お釈迦さまの数限りない過去世の話を伝える古い伝承(「ジャータカ」といいます)において、過去世のお釈迦さまが「菩薩」と呼ばれていました。つまり、仏陀(ブッダ)になる前の存在が菩薩です。
菩薩として常に慈悲の心を抱き、自己犠牲をいとわず他者のためにつくす生涯を数限りなくすごして、その結果として今生で仏陀となったお釈迦さまにあやかって、いつか再び必ずや出現するであろう遠い未来の仏陀の前世を生きようと決意した人々が、自分たちのことを「菩薩」と称したのです。
彼らは、ひたすら僧院にこもって修行に専念していた比丘(出家修行者)に対して、自己の利をかえりみず他者の利を優先的にはかるという、本来ならば仏陀にのみなしえた慈悲の精神を発揮しようと心がけました。
出家修行者が自分のために修行をするのはむしろ当然のことで、何ら咎(とが)められることではありません。でも一方において、菩薩として生きようと決意した人たちは、みずからの立場を「大乗」と称し、お釈迦さまの真精神に立ち戻ろうとしたのです。
ここに至って、「無我(むが)」の教えは、ただ単に自分自身の苦に対処するためだけでなく、他者の救済にとって、はるかに重要で不可欠なものとなります。なぜならば、崇高な利他の精神、慈悲の精神を発揮するためには、(見返りを求めがちな)自己という存在を滅却しなくてはならないからです。自己の経験を構成する要素としての法(ダルマ)の束縛からも開放されなくてはなりません。この意味において、空性(くうしょう)体験は、実に慈悲の精神と不可分のものであったといえるでしょう。
さて、そうした菩薩たちが大乗のスローガンとしたのが「般若波羅蜜多」でした。彼らはこの言葉を拠り所とし、この言葉のもとに集結し、この言葉によって瞑想し、あるいは祈り、この言葉にこめられた理想(「智慧の完成」)を追求したのです。
ここで最初に舎利子に観自在菩薩に問うたことを思い出してください。一体あなたの得たヴィジョンとはどのようなものなのか─。
心経「大本」の「序」によると、これが舎利子の第一の質問でした。それは驚くべき「諸法のヴィジョン」として、すでに明らかにされました。第二の質問は、そのヴィジョンを得る手段は何か、です。
今が、その問いに観自在菩薩が答えようとしている場面なのです。「われわれ菩薩(複数形)の般若波羅蜜多に依るが故に」と。
膨大な大蔵経(仏典)の中で最大規模を誇る「般若経」(玄奘訳の正式名称は「大般若波羅蜜多経」)の主題(テーマ)は、その経題名が示すとおり、「般若波羅蜜多」です。般若心経もまったく同様で、般若心経とはどういうお経かといいますと、「般若波羅蜜多を説くお経」以外の何物でもありません。
観自在菩薩がすべての菩薩を代表して、大乗仏教の「祈りの言葉(マントラ)」としての般若波羅蜜多を宣揚したお経が般若心経なのです。
第3節 めざすべき境地
本節の解説に戻ります。
最上階のフロアには何一つ視界をさえぎるものがありません。だから、「心にケイ礙なし」です。「ケイ礙」とは「覆(おお)うもの」の意。そこでは恐怖もなくなるはずです。
どのような恐怖も、その根底にある本質はきっと「閉ざされている」という感覚でしょう。閉ざされていて逃げ場がないという感覚から恐怖が生まれます。例えば死の恐怖にしても、死から逃れられないと思えばこそ恐怖が生じます。逆にいうと、たとえ閉ざされていても、逃げるつもりがない者には恐怖はないし、むろん閉ざされていない者に恐怖は生じないでしょう。
日常の私たちの心は、時間に縛られ、空間に縛られ、世間のありとあらゆる習慣や状況や知識に縛られていて、あたかも頑丈な檻に閉ざされているかのようです。でも、いったい自分の外のだれが心を縛ることなどできるでしょう。逃げ場がないですって? もちろん逃げ場などありません。つぶさに観察してみると(これは本当は容易なことではありませんが)心には限界がないのです。心を束縛しているようにみえるものは、みんな幻影です。それもまた心が生み出したものにほかなりませんが。
だからそれから逃げる必要はないのです。それが幻影であることを見抜けばよい。それが「一切の顛倒夢想を遠離して」ということです。「顛倒」とは「逆さま」の意。「遠離」とは「超越」の意。ないものをあると誤って考えることが、「顛倒夢想」です。それを遠離するとは、これまで心経本文で「ない」と述べられてきた諸法を「ある」とみなすレベルを卒業しているという意味です。
するとどうなるか。「涅槃を究竟する」というのです。「涅槃」とは、最上階における意識の開放次元のことです。「究竟」は「完成」の意。これが、めざすべき境地です。
さて、そのような涅槃の境地を完成しているのは一体誰なのでしょう。つまり、本節の全文の主語は何か、ということですが、「涅槃の完成者」は、お釈迦さまに決まっているではありませんか。「お釈迦さま」が隠れた主語です。
三世の諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。
「阿耨多羅三藐三菩提」」は音写語で、いわゆる「さとり」のことですが、「この上ない完璧な目覚め」という意味です。ここで「般若波羅蜜多」と「涅槃」と「阿耨多羅三藐三菩提」の三つが、しっかり肯定されています。般若心経は、なにもかも「ない」といっているのではないのですね。
第4節 上昇の通路
故に知るべし。般若波羅蜜多は、これ大神咒なり、これ大明咒なり、これ無上咒なり、これ無等等咒なり。よく一切の苦を除く。真実なり、虚からざる故に。
すべては最後の真言に集約されます。それは大神咒であり、大明咒であり、無上咒であり、 無等等咒である、と。いずれも般若波羅蜜多を嘉(よみ)した名称です。自己という 高楼(こうろう)を昇り極めるための通路としての─。
この 四つの咒(マントラ)の名が列挙されている理由は明らかではありませんが、本稿で試みた四階建てプラス屋上の構図にあてはめて、階上への通路にはそれぞれのフロアに応じた名称があると考えることができます。
大神咒(偉大なるマントラ)は、一階(幼児のフロア)から二階(大人、世間のフロア)への通路です。この上昇は人間にとって偉大な飛躍というべきでしょう。
大明咒(偉大な明知のマントラ)は、二階から三階への通路です。無明の対極の明知こそ三階のフロアの光です。
無上咒(この上ないマントラ)は、三階から四階への通路です。この建物にはこれ以上の階はありません。
無等々咒(比べるものなきマントラ)は、四階から屋上への通路です。屋上は大空そのもの。これに比べられる展望はないでしょう。
このように四つの咒(マントラ)の名称と各階のレベルとは奇しくも符合します。般若波羅蜜多は新たなる次元に参入する手だてなのです。その結果が「よく一切の苦を除く」です。
本節の「真実」にあたる原語「サトヤ」は「究極のありよう」といった意味です。真実は真実でも「究極の真実」です。般若波羅蜜多は飛翔への推進力を秘めた祈りの言葉であり、人間の思慮分別を越えていて何の偽りもないので、「不虚なるがゆえに」すなわち「偽りなきがゆえに」と述べられます。
最後に般若波羅蜜多の咒が披露されて、壮大かつ深遠な寸劇(ドラマ)は幕を下ろします。
第5節 祈りの彼方
般若波羅蜜多の咒を説いて曰く─
掲諦、掲諦、波羅掲諦、波羅僧掲諦、菩提、薩婆賀。般若心経。
この咒はサンスクリット原文を音写したものです。原文をカタカナで表記しますと、
「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」
となります。
玄奘三蔵は漢訳できない語として次の五種類をあげています。
(1)陀羅尼(だらに)(真言)のように秘密の語。
(2)「薄伽梵(ばがぼん)」のように多義のある語。
(3)「閻浮樹(えんぶじゅ)」のように中国にない語。
(4)「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」のように先例のある語。
(5)「般若(はんにゃ)」のように「知恵」と訳してしまうと意味が軽くなってしまう語。
これを「五種不翻」といい、これら五種類のいずれかの語は漢訳せずに、音写語が用いられました。その筆頭が真言です。
音写語は漢字の字面から意味を窺うことはできません。意味を知るには、サンスクリット原文にあたる必要があります。でも、サンスクリット語を解する者なら誰でもわかることを、一体なぜ「秘密だから」といって真言は漢訳されなかったのでしょう。
実は真言は、その一つ一つの文をさして真言というのではないのです。真言とは、特定の儀礼や瞑想修行において師より弟子に伝授される言葉で、そこで用いられて初めて真言の名に値するものとなるのです。
真言とは、そうした特殊な場面で誦(とな)えられる象徴的かつ聖なる音韻です。それが繰り返し誦えられることによって修行者の人格を調和的に揺さぶり、より高次の体験へと飛翔させる「祈りの言葉」なのです。だから般若心経においても、観自在菩薩が舎利子に伝授するというかたちで示されているわけです。
真言の真価は字句の意味よりも、その場面の神秘性にこそあるので、漢訳せずに原文を忠実に音写表記する方針がとられたのです。真言の音節や意味が秘密ということではないので、次に概略を説明しておきます。
まず、最初の「掲諦(ガテー)」ですが、これを文字どおりの「行く(往く)」という語意にとらわれてはなりません。行くとか行かないということではなく、より適確な語感は「理解する」でしょう。「智慧の完成」という意味の「般若波羅蜜多」と重なる語です。
この「掲諦」が、つごう四度繰り返されることによって、階段を昇って理解を高めていく展開が実感されることでしょう。
次の「波羅掲諦(パーラガテー)」の「波羅(パーラ)」は、「彼岸」とも訳される語ですが、要は「超越的地点」のことです。これが「掲諦」と結びつくことによって、現地点を越えた展望が開けてきます。
さらに、「波羅僧掲諦(パーラサンガテー)」の「僧(サン)」とは、「完全に」という意味ですから、ここで完全な理解に達し、いわば階段を昇りきって全方位に見晴らしがきく状況が現出します。それがまさしく「完璧な目覚め」であることが、「菩提(ボーディ)」の語で示されます。
最後が「薩婆賀(スヴァーハー)」ですが、この語は、仏教に限らず、インドでは儀礼において 咒句(マントラ)を誦えつつ神々等に供物を捧げる際に用いられる定型の終句です。「成就あれ!」というほどの意味です。
以上が一応の語義の説明ですが、「掲諦」から「菩提」までの各語は、実はすべて「般若波羅蜜多」の別称で、しかもそれらは女性名詞の呼格(呼びかけ語)ですから、女尊の名称なのです。
般若波羅蜜多が女尊であり、掲諦の句がそれと同義の女尊への呼びかけといえば、奇異に感じられるかも知れません。
宋(そう)の時代に漢訳した施護(せご)の経題は「聖仏母般若波羅蜜多経」となっていて、般若波羅蜜多が「仏母(ぶつも)」と呼ばれていたことを示しています。実際に、大般若経巻14の中の「仏母品」という一節には、「般若波羅蜜は能(よ)く諸仏を生ず」と記されていますし、このほか維摩経などの多くの仏典にも「仏母」としての般若波羅蜜多が説かれていることは事実なのです。
お釈迦さまのご生誕の聖地ルンビニーの守護神は、生母マーヤー(摩耶)夫人です。お釈迦さまをこの世に産んでわずか七日で没した母マーヤーの名は「幻影」を意味し、その現地名「ルンミンデーイ」の原意は、「失われた女神」です。数百年の時を経て、仏陀(ブッダ)の母は般若波羅蜜多として蘇り、大乗仏教の原動力となったのでした。