第1節 キーワードは「諸法」
続く本文は次のとおりです。
舎利子よ、是の諸法は空相にして、不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。
観自在菩薩は、ここで再び「舎利子よ」と呼びかけます。
般若心経において、舎利子は、もっぱら観自在菩薩の言葉を聞く立場の人として登場します。般若心経という一幕の寸劇(ドラマ)で、そういう役目に舎利子という人物が選ばれたのはどうしてでしょう。
この寸劇には、(「大本」によると)お釈迦さまはもちろんのこと、大勢の人が集まっているのですが、現行の玄奘訳「小本」般若心経は、観自在菩薩と舎利子だけにスポットが当てられている格好になっています。観自在菩薩は、「観ること自在」という名が暗示しているように、般若心経が想定している高次の観点に至った、いわば理想の人物です。かたや、舎利子はお釈迦さまの高弟として知られる歴史上の人物です。ほかの誰でもなく、舎利子が観自在菩薩の教示を受ける立場の人として選ばれた何か特別の理由があったのでしょうか。
この配役は実は仏教思想史の展開を反映していて大変興味深いものです。キーワードは上掲の文中の「諸法」です。
順を追って説明していきましょう。
まず文中の「是の諸法は空相」ですが、「この諸法(しょほう)」とは、直前の本文の〈色〉〈受〉〈想〉〈行〉〈識〉の五蘊をさしています。五蘊というのは、すでに説明してきましたように、自己をふりかえる瞑想の中で「〈私〉は五蘊にすぎない」と得られるヴィジョンにほかならないわけですから、ここでいう「法」も、さしあたって「瞑想の中で観察される特殊なヴィジョン」という意味で理解しておいてよいと思います。(仏教の「法」は、多義のある「ダルマ」の漢訳語で、必ずしも法則・規範という意味ではありません。ここでも独特の意味で使われています。)
次に「空相」とは、「空を特徴としている」という意味ですから、これは要するに「空である」ということです。なんのことはありません。「この諸法は空相」とは、前出の「五蘊は皆空」とまったく同じ意味の文なのです。「五蘊」を「諸法」と言い換えただけのことなのですが、ただし、この言い換えは重要なポイントです。問題は「諸法」なのです。
実はこの直後の心経本文で「ない」と列挙されているすべての項目が「諸法」に該当しますので、「諸法空相」ということは、当然それらすべての諸法についても当てはまると考えなくてはなりません。
つまり、要点はこうです。般若心経で問題としているのはあくまでも「諸法」であって、いかなるものでも何でもかんでも「空」だとか「不生」だと言っているわけではないのです。
第2節 諸法が顕(あら)わになるとき
さとりを開かれた直後のお釈迦さまが、みずから感興のおもむくままに唱えたと伝えられる次のような詩があります。
熱心に瞑想するバラモンに
諸法が顕わになるとき
彼の一切の疑惑は消滅する
有因の法を知るがゆえに(律蔵『大品』)
お釈迦さまの成道(さとりの完成)において「顕わ」になったもの─。それが「諸法」だったのです。
その「諸法」とは何かというと、この前後の文脈から判断すると、無明、行、識、...生老病死、という十二因縁(後述)の各項目をさすと考えられます。
お釈迦さまは瞑想によって苦の原因を順に次々と探っていき、その因果系列をつきとめたのでした。その各項目(一つ一つのヴィジョン)を「諸法」といい、法には必ず原因があるので「有因の法」といい、「有因の法を知る」がゆえに「一切の疑惑は消滅」したと、こういっているわけです
このように諸法が「因に縁(よ)って生じる」ことを「縁起(えんぎ)」といいます。お釈迦さまは、まさに「縁起する諸法」をさとられたのです。
諸法は瞑想によって初めて「顕わ」になるものですから、これまで本稿で述べてきた建物の比喩にあてはめると、諸法は一階の幼児のフロアや二階の世間のフロアで観察できるものではなく、そこを越えた階上のフロアに至って初めて観ることができる高度なヴィジョンであった、ということでしょう。
二階のフロアでは、〈私〉は〈私〉です。世間の日常生活において自己形成は大切なことですが、一方、そこは自己に執着し、それゆえに苦にみちた迷いの世界です。
ところが、世間のフロアを出離して、三階のフロアで自己を観察すると、〈私〉は五蘊という五つの要素にすぎないと判明します。五蘊という諸法が顕わになり、〈私〉は五蘊に解体されてしまうのです。この三階レベルのフロアに至ると、〈私〉という実体はどこにもなく、〈私〉自身、そして〈私〉が見たり聞いたり感じたりするさまざまな経験の内容が、もっぱら「縁起する諸法」として観察されるのです。このことを仏教では「諸法無我」といい、大事な教えとしてきました。
仏教における「法」の重要性は以上のとおりですから、お釈迦さまの滅後も、仏弟子たちにとって、諸法の性質や種類を探究し、いかにして諸法を観察するかということが最大の関心事となったのも当然でしょう。
法の研究のことを「アビダルマ」といいます。紀元前二世紀頃からアビダルマの学派が数多く誕生し、たくさんの論書が著されました。仏典を総称して、経(きょう)・律(りつ)・論(ろん)の「三蔵(さんぞう)といいますが、部派仏教の〈論〉はすべてアビダルマ論書で占められています。
多くの学派の中で最も優勢を誇ったのが 説一切有部で、世親(せしん)という論師が書いた『アビダルマ・コーシャ』(『倶舎論』)という書物は、法の研究の集大成といえるものです。
第3節 大乗仏教の出現
こうした専門的な人たちによる精緻な研究に対して、いつしか批判的な態度をとる人たちが出てきました。アビダルマの論師たちは法に固執し、法を実在視してしまっている、それは誤りである、という批判です。
たしかに法こそ、お釈迦さまの成道において顕わになったものですから、これほど重要なものはありません。したがって、アビダルマの論師たちが法に固執してしまったのも無理はありませんが、それはやはり正しくない。我執を離れるために自己を五蘊という諸法に解体したように、それと同じように今度は諸法に対する執着を離れるために、法もまた解体されなければならないと、批判者たちは考えたのです。
でも、法そのものを否定することはできません。お釈迦さまのさとりを否定することになってしまうからです。しかし、法を否定することなく、解体するなどということが果して可能でしょうか。
ともかく、いずれにしても法を実在視するのは明らかに誤りであると考える人たちは、みずからの立場を「大乗」と称し、説一切有部をはじめとするアビダルマの論師たちを「小乗」と蔑称で呼び、たえず鋭い批判を投げかけました。
彼らは、最初は法を蜃気楼の水や弦楽器の音に喩えたり(『八千頌般若経』)、また例えば「AはAではない。それゆえにAといわれる」(『金剛般若経』)といった一見非合理でパラドックスに満ちた文章を用いて「法の解体」を試みました。
そうこうしてやがてついに、法を否定することなく、法を解体し、なおかつ至高の法のヴィジョンを確立するに至ります。そんな 離れ業を可能にした用語が、ほかでもなく「空(くう)」だったのです。
─諸法は空である─ これが諸法に関して大乗仏教が提起した最終的な結論でした。
これを高らかに宣言した経典が般若心経なのです。観自在菩薩は大乗仏教の旗手としてこのお経に登場したのでした。
その聞き手の代表に舎利子が選ばれたのは、もちろん偶然でも任意でもなく、確かな理由があってのことでした。
第4節 舎利子のエピソード
舎利子がお釈迦さまの弟子になるきっかけとなった有名な話があります。
成道後のお釈迦さまの最初の弟子となった五人の比丘の中に、アッサジ(漢訳名「馬勝(めしょう)」)という名の人がいました。
ある時、王舎城に托鉢に来ていたアッサジの姿を見て、その気高さに心打たれた舎利子は「あなたは誰を師とし、どのような教えを身につけているのですか」と尋ねます。アッサジは、「私の師はお釈迦さまです。私は弟子入りしたばかりで、まだ少ししか学んでいないのですが」と言って、披露した言葉が「縁起法頌」として伝わっています。それを聞いただけで、舎利子はそれまで師事していた人のもとを離れて、ただちにお釈迦さまに帰依する決意を固めたのでした。
その縁起法頌とは次のようなものです。
諸法は因より生じる。
それら諸法の因を如来は説いた。
また、それら諸法の滅をも。
大沙門はこのように説きたもう (律蔵『大品』)
これがやがてお釈迦さまの十大弟子の筆頭となり、「智慧第一」と称えられた舎利子にして初めて感得しえた言葉であるということを考慮するまでもなく、ここには世間のレベルを越えた内容が記されています。諸法のヴィジョンを持つこと、それじたいが世間を越えたレベルなのです。それが生じるか生じないかどうか以前の問題として、なにしろ諸法とはお釈迦さまの成道において初めて顕わになったものですから、「諸法は...」で始まる縁起法頌は確かにお釈迦さまの教えの核心を伝えるものでした。
多くの仏典に記されている舎利子入門のエピソードと縁起法頌を知らないインド仏教徒はいなかったはずですから、舎利子が登場する般若心経という寸劇が、この故実を踏まえていることは確実だといえます。その劇的効果は、観自在菩薩が再度「舎利子よ」と呼びかけて語る次の言葉で最高潮に達します。もう一度、心経本文を引用してみましょう。
舎利子よ、是の諸法は空相にして、不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。
これは画期的な"宣言"でした。大乗仏教の最終結論がついに示された、という場面です。その内容の意外性に最も衝撃を受けたのは、ほかでもなく舎利子その人だったでしょう。この場面の聞き手が舎利子でなければならない理由がここにあります。なにしろ─
舎利子は以前に、─諸法は因より生じる...─ ということをアッサジから聞いて、感銘を受けたのでした。それが、ここでは、─諸法は生じない(不生)...─ と観自在菩薩から告げられるのです。
一見まるで正反対です。観自在菩薩は縁起法頌を否定したということなのでしょうか。
第5節 不生不滅の諸法とは?
四階建ての比喩を用いて説明するのが最もわかりやすいでしょう。
一階の幼児のフロア。ここはまだ自己が確立されていない段階です。二階の世間のフロア。ここで自己が形成されます。それは自己自身に対するさまざまな枠づけ(例えば社会や家庭における役割や地位)となり、人はそれに執着します。あらゆる苦しみはその枠から発生します。三階の舎利子のフロア。まさしく舎利子がこのフロアのマスターでした。
舎利子になりかわっていいますと、苦しむ自己から解放されるには、自己そのものがないというごく単純な、しかし深遠な事実を知ればよい。それをいかに洞察するか。自己は五蘊にすぎない(五蘊の仮の集合にほかならない、すなわち「諸法無我」)と知る「五蘊の瞑想」を実践すればよろしい。
本来は、このフロアだけで十分だったのです。ここが仏教のフロアであり、ここで諸法を観察することによって、人は苦しみから解放されるのですから。
しかし、あまりにも研究熱心な人たちが、諸法を絶対視し、諸法の一つ一つを何か独立した存在のように考えてしまったため、本来の法のヴィジョンを提示するために、より上位のレベルのフロアが必要になりました。
そこで四階のフロアです。おそらく舎利子にとっては不本意でしょうが、階下のアビダルマ論師を代表する立場を演じてもらう人物は、三階のマスターである舎利子しかいません。結局、「大乗のフロア」と呼ぶべき最上階に至った観自在菩薩が、階下の「小乗のフロア」の舎利子に教示するという構図が般若心経の中心場面として設定されることになったのです。
三階のフロアで自己を観察すれば、自己という枠はどこにもなく、ただ諸法のみというヴィジョンが得られ、諸法はそれぞれに原因となり条件となり、生じ、あるいは滅するようにみえることでしょう。ですから、確かに諸法は因によって生じ、因によって滅するのです。増えたり減ったりもするでしょう。
しかし、それを四階のフロアでみれば、生じることも滅することもありません。当たり前です。四階には何もないのですから。そこは広々とした展望のみというフロアなので、当然のことながら、何であれ生じるも生じないもないのです。諸法が増えたり減ったり、浄らかであったり、汚れているということもないのです。
ただし、最上階の四階は階下のすべてを含みます。ですから、「諸法無我」といい、「諸法空相」といっても、諸法も自己も消滅したわけでは決してありません。問題は自己自身を、ひいては諸法をどう観るか、その観点とヴィジョンなのです。観自在菩薩はそれを会得して「一切の苦厄を度したもうた」のでした。
言い忘れましたが、サンスクリット原典には、今回引用した本文の最初に「ここにおいて」という漢訳にはない語があります。観自在菩薩のいる「ここ」とは四階のフロアのことであり、これはその観点を明白に示している語だといえるでしょう。