第1節 一切の苦厄を度す
観自在菩薩が深遠な般若波羅蜜多の行をしている時、(わが身は)五蘊なり、(しかもその五蘊は)皆空なりと照見した。
この冒頭の一節の最後の「一切の苦厄を度したもうた」(度一切苦厄)という文は、サンスクリット原典には、小本にも大本にもありません。おそらく漢訳者が心経最終段の「よく一切の苦を除く」(能除一切苦)を強調するために、ここに挿入したのでしょう。
「諸行無常」と並んで仏教が標榜する根本命題の一つが、「一切皆苦」です。この「苦」というのは、単に「楽しい」に対する「苦しい」という感覚のことではなく、この世は無常であるから「すべては思いのままにならない」ということを意味します。すなわち、何事も 不如意、という現実の認識が「苦」の原意です。
生まれること、老いること、病むこと、死ぬこと、この四つ(生老病死)の根本苦を四苦といいます。これに、愛するものと別れる苦(愛別離苦)、憎むものと会う苦(怨憎会苦)、求めて得られない苦(求不得苦)、五つの要素(五蘊)が仮に和合しているにすぎない人間存在は本質的に「思いのままにならない」という苦(五取蘊苦)、以上の四つの苦を加えて八苦。非常に難儀することを「四苦八苦」といいますが、それはこの最初の四苦とそれを含む八苦に由来する言葉です。ともかく「一切は苦」であり、これが仏教の根本命題。である以上、いかにしても苦は免れがたいように思われます。
ところが、観自在菩薩は、「一切の苦厄を度したもうた」。あらゆる苦・災厄から離脱した、というのです。この一見さりげない挿入文は、おそらくは漢訳者が意図した通り、実に重大な'宣言'(メッセージ)というべきでしょう。
仏教の実践的目標であり、かつ究極の救いを端的に示したこの一文にこそ、般若心経の聖典としての真価と人気の秘密があるといっても過言ではありません。
どのようにして観自在菩薩は、「一切の苦厄を度したもうた」のでしょうか。
これまで説明してきたことをまとめますと、観自在菩薩は般若波羅蜜多の真言を念誦する瞑想をして、その結果、ある眺めのよい境地に達します。それは高層の建物を昇っていくごとに得られる展望に喩えられる、という話をしてきました。もちろん、それは「自分自身を知る」修行のプロセスを喩えたものです。
一階は幼児のフロア。
二階は世間のフロア。
三階から仏教のフロアです。でも三階はまだ小乗のフロア。そこに舎利子がいます。
四階が大乗のフロア。ここが事実上の最上階で、観自在菩薩が到達したところです。そこで観自在菩薩は何を観たのでしょうか。
観自在菩薩は、屋上の釈尊の瞑想にいざなわれるようにして、「般若波羅蜜多の行」という瞑想を実践して最上階に至り、そこで「空」を観たわけです。
この瞑想を「空観」といいます。これが尋常でないヴィジョンであったことは言うまでもないでしょう。なにしろ、それによって「一切の苦厄を度したもうた」のですから。
第2節 空(くう)の瞑想
一体あなたの得たヴィジョンとはどのようなものなのか―。
大本の「序」によると、これが舎利子の第一の質問です。(第二の質問は、そのヴィジョンを得る手段は何か、です。)それに対して、観自在菩薩は次のように答えます。
舎利子よ。色は空に異ならず。空は色に異ならず。色は即ち是れ空。空は即ち是れ色。受想行識もまたかくの如し。
この文中のあまりにも有名な 「色即是空」という文句は、たしかにレトリック(修辞)として秀逸ですが、これは実は「五蘊皆空」をパラフレーズ(わかりやすく言い換える)した表現にほかなりません。
つまり、五蘊(色・受・想・行・識)の一つ一つについて「空である」ということを述べただけの表現です。「色即是空 空即是色」に続く文が「受想行識もまたかくの如し」ですから、当然、「受即是空 空即是受」「想即是空 空即是想」...ということが成り立ちます。
なぜ、そのようなことが言えるのか。なぜ色受想行識の五蘊がどれも「空」なのか。ここで注意していただきたい点は、これを「世間のレベル」や「舎利子のレベル」で解してはならないということです。
インドの宗教史上において、仏教が掲げた最もユニークな概念は「空」であると言って、まずさしつかえないでしょう。
もっとも、「空」という語自体は仏教が編み出したものではなく、インドではごくありふれた語のひとつでした。ただし、この語から数学史上最大の発見といわれる数字の「ゼロ」を導き出したのもインド人の功績です。インド仏教徒は、瞑想の極致のヴィジョンとして、「空」を「発見」したのでした。
世間のフロアでは、〈私〉は〈私〉です。人は自分というものがどのようなものであれ、自分は自分であり、かりそめにも他者でないことを意識して行動します。日常生活のレベルにおいては、自己の確立とか自己形成ということは、言うまでもなく、とても大切なことです。
それを否定して、最初から、たとえば「無我になれ」などと言われたら、たぶんまるで主体性のない人間ができあがってしまうことでしょう。したがって、「無我」は日常的な教訓などではありえないのです。むしろ自己を真に確立しえた人が、さらにその上に至って見ることのできる高度なヴィジョンであり、それが、「自己は五蘊なり」という洞察だったのです。
それが舎利子のレベルであり、そこで〈私〉は五蘊が仮に和合したものにすぎない、と知ります。言い換えると、〈私〉なるものはどこにもない。つまり、ここでようやく、無我、という真相をさとるのです。観自在菩薩はこのレベルをも通過して、「その五蘊はみな空なり」と洞察します。
舎利子のいる三階から見れば、世間レベルの二階は苦悩に満ちた世界です。二階のフロアにおいて「自己の確立」は大切な徳目だったのですが、それを三階から見るならば、「自己の執着」にほかなりません。それがあらゆる苦悩の原因であることが、そこに至った人には、はっきりわかるのです。でも、それは三階から見て二階を否定することではなく、ただ二階を通り過ぎるということなのです。
まったく当たり前のことですが、階上は階下なくして存在しません。二階のフロアだけしかない四階建ての建物などありえません。どの階もなくてはならず、どの階にもそれぞれの意義があります。そして、上の階に行くためには、やはり一階ずつ順に昇っていかなくてはなりません。なお、この建物の比喩(ひゆ)が適切である証拠に、般若心経の本文の中に「遠離(おんり)」という言葉が出てきます。これは「超越する」という意味ですが、この原語を直訳すれば「階段を昇りきっている」です。この言葉は、まさにこの比喩通りの意味で理解してよいでしょう。
さて、最上階における「空」のヴィジョンとはどのようなものなのでしょうか。
それを窺い知るには、観自在菩薩と同じ境地に至らねばなりません。と言ってしまえば、とても歯が立ちそうにありませんが、「色即是空」という公式で示されたしくみは、およそ次のようなことです。
第3節 「色即是空」のしくみ
まず「空」という語自体の意味は簡単です。要するに「からっぽ」ということです。「空」と似た語に「無(む)」があります。このふたつはよく混同されがちですが、もちろん違います。
般若心経には「空」とか「無」という語がたくさん使われています。数えてみますと、このわずか二百六十余文字の経典の中に「無」は二十も出てきます。「空」は七つです。ついでながら「不(ふ)」という語も九つあります。
なんと否定的な語の多い経典だろうという印象を誰しも抱くことでしょう。その理由は後回しにして、ここで「無」と「空」の違いについて簡単に説明しておきますと、たとえば水の入っていない 空(から)のコップがあるとします。この場合、「コップは空」です。でも、「コップは無(む)」とはいえません。
コップが空(から)ということと、コップが無(な)いということとは別です。「無」と「空」の違いはこれで明らかでしょう。
無(な)いのはコップではなくて水です。インド人は、このことを「コップには水の無(む)がある」と表現します。もしコップに水があれば、コップは「水の場所」です。ないと、コップは「水の無の場所」です。「無の場所」が「空」なのです。おわかりいただけましたか。
コップはもともと空(から)です。空でなければコップの用をなしません。空だからこそ、水でも何でも入れることができるのです。一方、水もまた容器を必要とします。
ここで「コップが空(くう)であること」を「空である性質」という意味で「空性(くうしょう)」と呼ぶことにします。すると、空のコップには空性がある、と表現することができますね。(でも、この表現は日本語になじみませんので、空性とはコップの内部のスペースのことだと理解していただいても結構です。「コップにはスペースがある」ならわかりますね。)
さらに、こういうこともいえるでしょう。もしコップに空性(スペース)がなければ水が入る余地はないのですから、コップにおいて空性と水とは不可分の関係にあります。空性なくして水はありえず、また水なくして空性も意味をなしません。
なぜこんなことを申しあげたかといいますと、般若心経で用いられている「空」という語は、原語に照らして正確に訳せば、すべて「空性」と解さねばならないのです。すなわち、「空なるもの」ではなく「空なること」を意味するわけです。これは「空」を理解するうえでの大きなポイントです。
ここで再び建物の比喩を思い出してください。この建物はかりに百貨店だとします。一階は衣料品のフロア、二階は家具のフロア、等々としましょう。各階に陳列されている品物が、この百貨店を特徴づけています。
なぜいろんな品物を置くことができるかというと、当たり前のことですが、置くスペースがあるからです。ちょうどコップに空性(スペース)があるから水を入れることができるのと同じように、一つ一つの品物はどれも空性に裏づけられています。
この建物とは〈私〉自身のことでした。〈私〉をして〈私〉たらしめている五蘊(色・受・想・行・識)は、舎利子が到達した三階のフロアのアイテムです。それはとても大切なものに違いありませんが、いわば一フロアの品物として単に置かれているだけものにすぎません。それも置くスペースがあってのことです。
品物とそれを置くスペースは不可分の関係にあります。「五蘊はみな空なり」というのも、まったく同様のことです。したがって、「色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ちこれ空、空はこれすなわち色」というのは、その言い換えにすぎないわけですから、もはや説明するまでもないでしょう。
第4節 観自在菩薩が観たもの
ただし、ここで再び注意すべき点を確認しますと、これは最上階の観自在菩薩が三階のフロアのアイテム(舎利子の認識)を洞察して得たヴィジョンであったということです。
二階の世間のフロアでは、自己の確立は大切なことでした。しかし、三階のフロアから二階のその「自己の確立」を見ると、単に「自己の執着」にほかなりません。そして、そこで「自己とは五蘊にすぎない」と気づきます。それをさらに四階から見ると、「五蘊はみな空なり」と洞察することになるわけなのですが、問題は、以上の説明のように、それはただ単に「五蘊は空性(スペース)と不可分の関係にある」とみなすことだったのでしょうか。
この建物のあり方から推測すると、最上階の四階には「何もない」、すなわち「空性(スペース)のみ」ということになります。
実際、このあとの心経本文は、「空の中には何もない」として、そこに無いもの(言い換えれば、階下にあるもの)をことごとく列挙する文章がずっと続きます。ですから、「最上階は空性(スペース)のみ」と理解することは、まったく正しいことです。
問題は、「自己⇒五蘊⇒空性」を、ひとつのヴィジョンとして瞑想体験するとはどのようなことか、ということです。最上階に至っても、自己は消え失せるわけではなく、観自在菩薩は依然として観自在菩薩です。
ここで「空(くう)」とは「空(から)っぽ」のことであるという通常の理解からいったん離れる必要があります。なぜなら、観自在菩薩が観たものは、あくまでも自己自身であり、それが「空(から)っぽ」であった、という拍子抜けするようなことではありえないからです。
何にせよ、私たちが「自分とはこういうものだ」と考える時、そこに枠(わく)づけを行なっています。二階の「自己の確立」しかり、三階の「自己は五蘊なり」との自覚しかり。
それはあたかも地図の上に線を引くようなことです。地図は便利なものですが、単なる図面にすぎません。私たちが生きているところは図面の上ではなく、この地上です。そこにいかなる枠づけがあるでしょうか。土地の境界があるではないかとおっしゃる人がいるかもしれませんが、それは地図の投影にすぎません。土地そのものは、すべて繋がっています。宇宙から見た地球には、どこにも境界がありません。それと同じです。
自分、というのもひとつの枠です。それが枠である以上、どうしたって、いわば地図にすぎないわけです。地図ではない自分自身。それは、むしろ想像しがたいことでしょう。でも、どんなに精密な地図でも、それは地図にすぎず、それに較べて本物の地形ははるかに精妙です。本物の地形には、何ら枠はありません。この「枠がない」ということが、実は「空」の本義なのです。
言い換えると、まったく開放されている次元をさして「空(くう)」というのです。最上階は、たしかに「空(から)っぽ」です。でも、それは消極的な意味で空洞というのではなく、はるかに積極的な意味で、なにものにも煩(わずら)わされず開放された自由な空間の広がりがあるということなのです。ここにおいて、自己自身は、地図上の枠づけを離れ、豊潤で繊細なリアルな自己そのものに立ち戻ります。
枠が我欲の巣です。すべての苦厄はそこから発生します。これを突破するのが空観という瞑想です。観自在菩薩は、それを実現したのです。これは、やはり容易ならざるヴィジョンであったというべきでしょう。